ひとりで生きる
ヴィターリー・カネフスキー監督「動くな、死ね、蘇れ!」の続編。その後の少年ワレルカと、亡くなった少女ガリーヤの妹ワーリャの話。あまりにも素晴らしかった。これまでこの映画を観たことがなかったことを悔いたけれども、今出会うべきものだったのかもしれない。
前回の映画が、少年的な、反抗期的な衝動を描いているとすれば、今回は主人公の成長に合わせて、青年期の色々な問題を描いている。それは恋愛であったり、孤独であったり、社会との関わりだったり。案の定、少年ワレルカは学校で悪さをしてしまい、警察に追われ、遠くの街で働くことになって、そういうワレルカの行動に、ワレルカのことを愛するワーリャという少女が絡んでくる。
なんだか、悪い夢を見ているような映画だった。ある心情の描写をするときの、シチュエーションや、ロケーションの選択が、あまりにも的確で、全体的に強い既視感を感じた。ストーリー展開というのもあるんだけれども、それ自体が面白い、という話ではない。しかし、その話の流れに乗っかって、畳み掛けるように、隠喩的な映像が折り重なってきて、最後のほうは、けっきょく何が本当で、何が嘘なのか、という事実関係はどうでも良く、とにかく主人公ワレルカの心情は一体どんなものであるか、ということの描写に専念している。
ワレルカは、大人になっていくに従って、ずっと心の中にあった、爆弾みたいな衝動を、もう何か頑丈な箱に詰め込んで、押さえつけるように鍵をかけなければならない。社会との折り合いもつけなければならないし、どこかに居場所を見つけなければならないけれども、あまりに自分の出来が悪いので、帰る家はないことは自覚している。ふつふつとわき上がる不安な気持ちや孤独感を、誰かに埋め合わせてほしいと思うのだけれども、あまりにも余裕が無くて、自分のことで精一杯なので、視界の中に他人が入ってこない。
合間合間に、日本の民謡が挿入される。これは「動くな、死ね、蘇れ!」でもそうだったのだけれども、今回はより執拗に、意味ありげに挿入される。ヤマモトという日本人が、抑留されて、生気を失った目で、登場してくる。特に彼が何を喋るというわけでもないし、民謡を彼が歌っているシーンはどこにもないのだけれども、故郷という足場を失って、それでも生きなければならない、真っ暗なトンネルを光のない方向に向かってとぼとぼ進んでいるヤマモトは、どこかワレルカと境遇が似ている。映画の中で、様々なシチュエーションで、ヤマモトとワレルカは同じ空間に存在させられる。ヤマモトの存在は、ストーリー展開から考えると居ても居なくても関係ないんだけれども、ワレルカにとってこの日本人の存在は、重要なものだったはずだ。
そういう、折り重なる隠喩的な映像のひとつひとつが、最後の「ワレルカの独白」に、すべて結実していく。彼の独白については、できればここで書くよりも、観た人同士で、いろいろ話し合いたいものだ。表面上の余計な小細工をするのではなく、ただ単に、映像と映像を繋ぎ合わせることで表現されるものの奥深さや、魅力を感じさせる作品だった。観終わった瞬間に、はやく、この映画をもう一度、始めから見直したい、または、自分の人生の中で、折りに触れて繰り返し見たいと思った。