勉強、個性
お勉強がしたい。
よくよく振り返ってみると、ちゃんとお勉強していたのは中学までだ。中学の頃は、よくお勉強したと思う。その後は適当だった。高校の家庭科のテストのとき、ほぼ全ての解答欄に「筋肉」って書いたりね。英語の時間に机の上に花瓶と花を置いて静物デッサンを始めようとして、こっぴどく怒られたり…。こういうことは枚挙に暇が無く、いま思えば最悪ですが、あれはあれで楽しかった。
楽しかったけど、その後、どちらかというと「お勉強しないでいる癖」がついてしまったような気がして、そのことで悩む機会は多い。「だらだらする」のが美徳なんだと思っていたときは、頑張ることにさえも怠惰になった。それも楽しいんだけれど、どうにも進歩が無い。
やっぱり何だかんだ言って、ちゃんとお勉強するほうが、しないよりもエライし立派なのだ。力もつくしね。そんなことは当たり前の話なんだが、その辺の立派さの捉え方が、一般社会ではなんとなく、歪んでいるような気がしてならない。それを能力差の問題にすり替えている感がある。まるで勉強したのが悪かったかのように言われることもあった。勉強というのは単純に継続なんだと思うし、その対価ってのは誰しも平等に与えられるんだと思うけれど…。
同時に台頭してくるのが「個性」とかいう考え方だ。あれはとても厄介だ。各人の個性というものは尊重されたほうが良いに決まってるけれど、問題なのはそれがなぜか、勉強と対になっていることである。「勉強などでは計れない、個性が大事だ。」などと言われることが問題だ。こちらとしては一生懸命頑張ってきたことを基本的に全面否定された気分になる。そのくせ、求められる個性ということについては曖昧なのだ。曖昧なのに次のように問われたりする。
曰く「あなたの個性とは、ナンですか?」
それで、自己分析とかやらされるのだ。僕ら前後の年代にフリーターが多いことと、この問題はかなり密接に関係があると思う。厳しく個性を問われるから、やりたいことが分からない、となる。自分の中に”きっとあるはずの”本当の個性とか能力を、暗闇の道を進むように模索している時間があったら、たぶんその間に勉強なり何なりしていたほうが、おそらく求められる個性らしきものは表出されるんだと思う。個性と勉強は、対ではないのだ。
僕はそういうことに気づかずに、個性のことばかり考えていて、気づいたらしばらく勉強らしい勉強をしていなかった気がする。たぶん個性というものをもし定義するなら、それは後ろを振り返ったときの、足跡の蓄積のことを言うんだと思う。曖昧な表現だけれど、個性というのは未来のどこかに待っているわけではないはずだ。
それで、とにかく、一刻も早く、お勉強がしたい。でも、ここまで言っておいて、いざ始めるとやっぱり眠くなるのだ。それで、日記でも書こうと思って、気づいたら一時間近く長い文章を書いていたというわけでした。まだまだ怠惰癖からは抜け切れない…。