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2006.6.4

孤独について

孤独について―生きるのが困難な人々へ (文春文庫)

中島義道氏の『孤独について〜生きるのが困難な人々へ』という本がよかった…!この人のことは『<対話>の無い社会』という本で知ったのだが、こちらも素晴らしい内容で(というか共感できるところが多くて)、ものすごく印象に残っていた。

『孤独…』は、いわゆる著者の自伝なのだが、とりわけ著者がいかに「孤独」であるかというところに焦点を当てている。本によれば彼は、ただ単に孤独であるのではない、知らず知らずのうちに、しかし明確な意志をもって、孤独を選びとっているというのだ。冒頭でニーチェの”運命愛”という思想について触れてあるが、これは言葉通り「運命を肯定し、愛せよ」ということであり、例えば彼が孤独なら、それを肯定し、自分が敢えて選んだものとして受け入れる。それが、”よく生きること”につながるという意味である。この本は最初にそうした結論を提示し、次に自分の半生を赤裸々に語ることによって、その実践的過程・結果を見せるという構成で、実に分かりやすい。

分かりやすいだけでなく、特に思春期における体験の多くが、ピンポイントで共感できるものを取り上げていて、個人的に衝撃を受けた。青春期は川崎市中原区在住→県立川崎高校進学…という育ちの環境そのものに、すでに共感を抱かされる。(そして僕の父親とほぼ同年代、同じ高校ということは、父親と何らかの接点があったのだろうか…その辺も個人的に気になる…)。体育と体育教師が病気かというくらいに嫌い→ボールが(精神的な意味で)触れない+投げられない、なぜか生徒会副会長をやってみたり、それでも何故か自己顕示欲は強く拙くも表現活動に手を染める…etcと、外形的だがほぼピタリと自分が経験してきたことと一致、自分の中・高時代を思い起こさずにいられなかった。

よくこうした自伝で取り上げられる青春時代の悩ましい現象として、「ぐれる」「陰湿ないじめ」「劣悪な家庭環境」などがあるが、著者はこうしたものを「小奇麗な悩み」と突き放している。もちろん各々の悩みや問題を否定するわけではないが、僕も著者と同様にこれらの「小奇麗な悩み」に共感することはできない。ごくありふれた幸せな家庭に育ち、素行や学校の成績もそれなりに優秀。外形的な要素でまったく問題は無いがために、本質的な問題を誰にも説明することができないし、自分の中で消化することもできない、という著者の告白に僕はいたく共感するところがあった。

もちろん大学進学後からの過程はまったく方向性が違うし、回顧が僕よりも年上の時代になってからは比較のしようもない。しかし、だからといってその後の内容が僕にとって無意味だったというわけではない。この本で伝えるもっとも重要なことは、著者自身が冷静に過去を振り返り、自分に起こったことを徹底的に分析し、批判を恐れずに赤裸々に文章にする、という「過程」そのものにあると思う。だから例えば著者が「小奇麗」と批判するような回顧についても、その回顧をした人自身の抱える問題の解決方法として、やはりそれを書き残す、あるいは表現することは重要だったということだ。

著者の言う「孤独」についてはもう少し考えてみなければならない。額面どおりの「孤独」という意味では、彼を孤独だというのは難しいからだ。なぜなら彼には妻がいて、息子がいて、友人がいて、精神的窮地を救ってくれる恩師がいて、そして彼の「孤独」の叫びを聞いてくれる対象(読者)がいて…という状況だからである。しかし彼の文章をよく読むと、彼のいう「孤独」は、こうした社会的要素としての「孤独」とはまた意味が違うようだ。本質的な意味でその人が「孤独」かどうかは、その人以外に分かるものではないのであり、だからこそその問題はその人のみしか解決する人物はいない。その人の「孤独」を誰か他人が解消してくれるということは絶対にあり得ない。つまりこの本が著者”以外”に提示できるものは、彼の「孤独」とは一体なんだったのか、という解答ではなくて、彼が「孤独」についていかに分析し、その結果を彼自身がどのように受け止めていくのか、という過程にすぎないのである。この本によって何らかの「手ごたえ」を得たのは、彼だけなのかもしれない。

そういう意味では、著者の主張に対して僕がどれだけ共感したからといって、それを誰かに本質的に理解してもらうことは絶対不可能であり、それは著者に対しても不可能であろう。僕自身だけの理解であり、僕自身だけが、考えるべき課題と問題を与えられたということだ。もちろんそれはあらゆる表現の享受について言えることだけれど。

この本について考えることはまだまだ色々ありそうである。