アニエスの浜辺
アニエス・ヴァルダ監督「アニエスの浜辺」
ヌーヴェル・ヴァーグの巨匠なんでしょうが、映画をまったく見ないので、知りませんでした。ごめんなさい。でも、知らないで見ても面白かった。80歳くらいになったアニエスさんは、自分や自分と映画の関わりを、セルフポートレイトという形で振り返っていく。つまり、自分で自分のことを撮ったドキュメンタリー作品。
彼女の記憶や真実についてのスタンスが良い。自分で自分の事を振り返ると、つい美化してしまったり、脚色してしまう。そのことを嫌う人もいるだろうけれども、彼女の場合は、「それが記憶というものだ」というふうに思っているんじゃないかと思う。だから、自分の記憶の中に起こっている出来事を、飾りをつけて、人に演じさせる。しかも、演じさせているということがハッキリと分かるように、演じさせる。大事な再会のシーンで、「久しぶり、会いたかったよ!」というシーンを、何テイクもさせる。その何テイクも撮っている様子も、映像の中に組み込む。記憶というものは、自分のものなんだけれど、アニエスさんは、どこか突き放している。いま現在の自分はノンフィクションだけれど、過去は限りなくフィクション的だと言わんばかりに。でもそのほうが、記憶”らしさ”があるなと思った。
しかも、その「記憶らしさ」を表現するにあたっても、くそ真面目ではなくて、どこか愛嬌がある。自分のオフィスのことを振り返るシーンでも、浜辺が好きだからと、都会の真ん中に砂をバラまいて仮想砂浜を造り、その上にテーブルを置いて、オフィスだということにしている。実際はそんなオフィスではないということは誰でも分かるのだけれど、でも彼女が自分のオフィスをどういうふうに捉えていたのか、どういう思いを持っていたのか、そういうことが何となく伝わってくる。
僕はこれまでの人生の中で、おじいちゃんやおばあちゃんと接する機会が少なかった。おじいちゃんという存在はほぼ記憶に無いし、おばあちゃんとは一緒に暮らしていた時期もあったけれど、あんまり話さなかった。だから、アニエスさんが語る、ナイーブな心境はとても新鮮だった。当たり前なんだろうけれども、おばあちゃんも、現在進行形で、色んなことを感じたり、悩んだりしているんだなあと思った。すべての感情が赤裸々に表現されている。その赤裸々さだけを取り出したら、アニエスさんが考えたりしていることは、10代の多感な少女と何一つ変わらないな、と思った。姿や形は老いていくけれど、根本的な感受性みたいなところの老いというものは感じさせない。自分のおばあちゃんも、ひょっとしたらそうだったのかもしれないな。
結局、老いて変わってゆくのは、そういう自分の内側みたいな部分を、100%さらけ出すか出さないか、またはどれくらいさらけ出すのか、というさじ加減だけなんじゃないかなあ、と思った。さらけ出すための体力も必要だろう。アニエスさんも、まだ体力が残っているうちに、自分や映画、そして人との関わりについて、さらけ出せるだけさらけ出しておきたかったのかなと思った。