<対話>のない社会
「<対話>のない社会―思いやりと優しさが圧殺するもの」(著・中島義道)を読んだ。これは相当に面白かった。
この人は、あらゆることにイライラしている。この人をイライラさせる原因は、無意味な公共広告や、公共アナウンス、無意味な警告、こういうものをすべて公害とみなし、こういうものを蔓延させる原因として、「対話」することを重視しない教育を挙げている。
著者は電通大の哲学教授らしいのだが、たまたまこの本を読み終わったとき、電通大に通う友人が個展に来てくれたので、聞いてみたら、「うわっ ナカジマかぁ。知ってる、知ってるよ〜」と、かなりけげんな顔をされた。相当、風変わりで、厳しい先生のようである。曰く、調布駅の公共広告やアナウンスにクレームをつけ、放置自転車を蹴り倒しながら大学へ行き、教授会では相手を真っ向から批判し、授業のテストは「口頭試問」で対話しながら進められるetc…ずいぶん伝説の人になっているようだ。
この人の主張していることは、僕がかつて「小中高生のためのよい子シリーズ」で言いたかったこと、まさにそのものなのである。僕が考え続けて、どうにもぼやぼやして人に伝えられなかったことを、この著者は分かりやすく言語化し、訴えている。
この本の内容を「よい子」に置き換えて簡単にまとめるならば、「皆さん『よい子』になりましょう」と先生が言うとき、それは決して、一人ひとりに向けて言われた言葉ではないということである。つまりそれはその場を飾る空虚な言葉でしかなく、生徒もそれを認識しているため、生徒ひとりひとりはその言葉を真摯に受け止めず、黙って聞き流すという行為をすることになる。こうしたことは、駅前に飾られている公共マナーの標語や、井の頭公園でマイクを通じて流れるマナーについてのメッセージや、会議や式での形式的なやり取り・スピーチに繋がっていると、著者は指摘する。
僕は、まだ未消化の「良い子シリーズ」で、学校が空虚な「よい子像」を求める状況において、生徒も空虚な「よい子像返し」を実践することで、その空虚さ自体を暴けないか、と思ったのである。その空虚さというのは、学校で、特に生徒と先生が人間的な交流をしなくても「よい人間的評価」を得られてしまうという悲しさ、怒りである。それは一般的な生徒と先生の関係というよりは、ひょっとしたら、ただの僕個人の経験による悲しさなのかもしれないけれど。
著者は、こうした問題を解決する方法は、ただひとつ、「対話」をすることだ、と提案する。「対話」の詳細については本を読むのが良いが、簡単に言うと「思ったことを素直に伝え合う」である。これは著者自身も実践しており、実例がいくつも掲載されている。その中で、カンニングをした生徒との対話がおもしろかった。その生徒は最初はグレた対応で暴力的手段に出てくるが、著者が辛抱強く対話を続けるうちに「先生に意見を言ってもいいんですか?」となり、「いいよ」の答えから、とつぜん素直になっていく様が描かれている。
すべてが「対話」で解決するわけじゃなかろうが、この著者の勧める「対話」は、一対一で行なわれるのが前提だから、こうしたことが教育において普及することで、例えばひきこもり、いじめ、学級崩壊といった問題を解決するヒントにはなる気がした。