ホントに自分のものを作りたければ、少し外の世界を無視しなければできないでしょう。
一気に進む案件があれば、延々と何かに引っ掛かって動かない案件もある。けっきょくはウサギとカメみたいなもので、より準備が周到な案件が、ウサギよりも先にフィニッシュする傾向がある。先日も記事にした通り、お金のことでは、一瞬で世界が暗闇で覆われてしまうような、猛烈な不安に襲われることがある。カメに乗っているのは安全だがいつ動くか分からない、ウサギをつかまえにいくと、一兎も得られないかもしれない。気づいたら、頭の中は、そんなことばっかりで埋め尽くされている。それはとても残念なことだけれど、その残念の積み重ねで暮らしてこられたのも、また事実なわけで。
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仕事をすることは、自分にとっては大事なことだ。それで生きていけている。経験的な意味で、得るものも多いと思う。ところが、それだけになってるんじゃないの? ということは、当然、痛感している。表題は、ジム・オルークの昨年のインタビューの中であった言葉で、読んでいて、そうだなぁと思った。仕事というのは、けっきょくは外とのつながりの中で発生するものだ。そしてそれは、今置かれている社会状況や、流行などとも、密接に関係するものだ。
それはそれで大事にしていきたいんだけれども、大学を卒業して以来、ずっと”押さえ込まれていた”、自分の、自分による、自分のための「つくる」ということへの欲求は、明らかにくすぶっているわけで。どこかで、消してきたわけで。その”消す過程”の中には、自分の感性に対する絶望もあったわけで。これは本当に、僕だけの個人的な問題なんだろうけれども、「つくる時間」って、かなり強く意識しないと、確保できないものなんだなあ。要するに、生活に対して、保守的なんだな。その保守性は、もはや治らない気がする。僕は毎日絵を描かないと死ぬという人間ではない。
もう、別に、誰かに見せたいとか、どうでもいいよ。それはある意味、仕事でも満たす事のできることだと思う。そうではなくて、もっと根源的な、自分って、けっきょく、どういうものが好きで、一体なにがつくりたかったんだっけ? という、自分だけのための確認を、切実に欲している。