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2011.4.13 映画

トスカーナの贋作

四月あたまにアッバス・キアロスタミ監督の「トスカーナの贋作」を見てから、この映画のことが頭にこびりついて離れない。キアロスタミ監督は自分の中で最も好きな映画監督であるということを差し引いたとしても(実質、差し引けないけれど)、この作品はかなりおもしろかった。正確に言うと、おもしろかったというより、戸惑わされ、考えさせられ、日常生活の目線を変えさせられたという感じだ。

ストーリーを説明するのは難しい。あるときに出会った男女が一日デートをするのだけれども、この男女の関係性が、映画のはじまりと、終わりではだいぶ変わっている(または、変わっていないかもしれない)。最初は作家(男)と書評家?(女)という関係なんだけれども、途中から夫婦になって、最後はもう何だかよく分からない熟年の男性と女性の関係になっている。それに対する説明は一切なく映画は終わる。ふつうに考えれば、この男女はどこかで”演技”をしているということになるのだが、一体なにが本当で、どこで”演技”がなされていたのかは、観客が推測せざるを得ない。

しかしこの作品が支離滅裂に感じられないのは、人間誰しも、日常生活の中で”演技”をすることはあるからだ。エラい人の前では、自分を少しでもよく見せようとするし、親の前では、子どもらしい振る舞いをすることがある。今回はそれが男女関係において描かれているわけだけれども、恋愛こそ”演技”がもっとも行なわれるシチュエーションと言えるかもしれない。そして、男女がはじめて出会った時期と、熟年夫婦とでは、”演技”の性質も変化していくだろう。しかも、映画の中では、そういう”演技”がいかにも起こりそうな風景ばかりが描かれているし、何しろこの男女が出会うきっかけになった本が「贋作」というタイトルであることも示唆に富む。色んな見方ができる作品で、この映画を何十年かあとに見たら、まったく違う感想を持つかもしれないし、どこで”演技”がなされていたかの推察も変わってくるだろう。色んな人の感想を聞いてみたい。

それにしてもキアロスタミ監督というのは、真実と虚構の境界線をずっと追い求めている監督だけれども、今回のような描き方もあるのかと驚いた。彼の「オリーブの林をぬけて」という映画では、その前の作品「そして人生はつづく」の1シーンを演じる男女にスポットを当てて、そのシーンの撮影風景を何度も何度も繰り返すことで、徐々に移り変わる心情の変化を描いていたけれど、今回はそれをもっと掘り下げて、ストイックに表現したという感じがする。「『映画という舞台装置を作って、演技をさせる』ことを俯瞰する」というスタイルはずっと続けられてきているけれど、このことに対する彼の執着心は、正直変態的だなとすら思った。