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2008.4.28 映画

いのちの食べかた

ニコラウス・ゲイハルター監督の「いのちの食べかた」というドキュメンタリーを見た。これは、僕らがふだん食べている食材の製造過程を丹念に描写した作品である。野菜や果実をもぎとったり、動物を屠殺して解体していくような光景を、なんのナレーションも無く、ただ淡々と見せていく。

 しかしただ淡々としているからといって、切り口が凡庸というわけでもない。まず、取材対象として小規模農家は扱わない。大規模農家の、めまいがするような広い敷地で、めまいがするような量を収穫したり、屠殺したりする様を追っていく。もちろんそんな作業は手作業ではできないので、見た事もないような大規模な機械の登場となる。ピンポン玉のようにもの凄い速さでひよこをぶん投げる機械や、定規で線を引くようにあっさり豚の内蔵を切り出す機械、ありえない振動で木の実をふるい落とすショベルカーなんかを見ていると、不覚にも笑いすらこみ上げてくる。しかもこうした行程が、まるでキューブリックのSF映画のようなデザイン的な構図とカメラワークで切り取られるから、ますます映されているものが、異世界で行なわれている出来事のように見える。

このような食を題材とした映画になると、ことさら感情論というものが強くなりがちである。クジラひとつとっても、あれは残酷だとかそうでないとか、議論は白熱する一方だ。そこで監督は、食の製造工程を必要以上にシステマティックに見せることによって、観客をそうした感情論や先入観から距離を置かせようとしたんだろう。野菜や果物、魚の収穫にも重点を置いているのも、この映画が単純に人道的な部分にスポットを当てているのではないのだというメッセージなような気もする。結果として、この映画は、まるで「宇宙人による人間観察ビデオ」とでも呼びたくなるような具合に仕上がっている。

そうすることで何が強調されるかというと、それはチャップリンが「モダン・タイムス」で表現したかったようなこと、つまり合理性や生産性を追求して、機械的な文明を追いかけて行く人間と、有機的な自然との関係についてなのかなと思った。人間が食する有機的な物体が、いかにも無機的に生産されて行く様は、見ていてどこか滑稽で、同時に不自然である(しかし同時に、それが現実だ)。この映画のラストで描かれる牛の屠殺シーンは、たとえばNHKなんかでやっている、モンゴルの草原で老人が羊一頭をきれいに捌くような光景とはまったく相容れないものを感じさせる。血が吹き出たり、内蔵がはみ出したりするという、残酷さでは変わらないのかもしれない。しかし、ベルトコンベアで次から次へと牛が運ばれてきて、牛の形をした型に頭を固定され脳みそを撃ち抜かれたあと、自動的に後ろ足を縛って逆さ吊りにする、一連の機械の作業を見ていると、そのオートマチックで、しごく合理的な”システム自体”に、なにか恐ろしさを感じてしまう。

もちろん僕は自給率の低い日本という国に生きていて、どこの国でどんな殺され方、収穫のされ方をされたか分からない食べ物を、毎日おいしく食べている。だからこの映像に映っている事を簡単には否定したり批判したりはできない。しかしそうは言っても、これだけシステマティックに作られた食べ物を、システマティックに食べている今の社会というものが、客観的に見るとこれほど奇妙で終末的な(SF的な)光景なのかということに(それが強調されるように撮られているとはいえ)、正直、驚かされた。それでも現代社会では合理的な方法による大量の食料生産が必要なのは言うまでもなくて、その恩恵を受けて今日も僕はご飯を食べる。