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2008.10.28 展覧会

横浜トリエンナーレの感想メモ。

少し休みが取れたので、これを機会にと横浜トリエンナーレに行ってきた。まともに書くとめちゃくちゃ長くなるので、さっくりとメモ的に記録したいと思う。

【展覧会全体について】

3年前の展示に比べて、全体的に良かった。作品のバランス的も適度に散らばっていたし、質的にも良かった(好みの問題もあるかもだけど)。前回は一部の作家たちの「ナショナルアイデンティティ探求の巻」的な作品群のクオリティがとても低く足を引っ張っていて、けっきょくベテラン作家って良いよね、という感じだったので…。ただし今回はメイン会場3カ所で、それぞれの場所も大きく、互いにそれなりに離れていて、閉館時間18時(最終入場17時)というのはどうなのか。さらにそこから50分程度かかる場所で15時50分に終了する20分間のインスタレーション(毎時50分開始で定員10名)を始めとして5作品。しょうがないのかもしれないけれど、「物好き以外は来ないでください」と言われているようで少し不親切かなと思った。あとガイドトークを小学生にやらせたりしていたが、作品の本質に関係ないまめ知識を披露するような内容で正直言って邪魔くさいなあと思ってしまった。それよりインフォメーションとか、見やすい作品配置とか動線とかカフェの店員の態度とか、そういうところにこだわってほしかった。世間をにぎわすchim↑pomの問題での”ネットの反応”は、いかに一般的に現代美術が忌避されているかを示していたが、こういう問題への解決は、主催者側による、”美術好きでない人々の美術に対するリテラシー”への配慮みたいなところに求められるのではないか。

【新港ピアで気になった作品】

ペーター・フィッシュリ&ダヴィッド・ヴァイス

ウサギとクマの人形が洋館の中で走ったり踊ったり滑ったりする映像のインスタレーション。最初はデヴィットリンチ「インランドエンパイア」のネズミを連想させたが、ほぼ同じような箱庭的世界観。少し離れた場所に、実際のぬいぐるみたちがすやすやと眠っている作品。よく見ると、ぬいぐるみの胸にポンプが仕組まれていて、寝息を立てているのが分かる。留守中のペットがどんな風に過ごしているかを眺めているみたいでおもしろいし、映像も逆再生をしたり振り回したりぐるぐる回ったりストーリーがあったり、見ていて飽きない。ただし隣の作品の音楽が邪魔で、世界観が壊されていたのは残念。

シルパ・グプタ

別の会場でも出てくるがインド人の作家。でかい写真が4点、たくさんの子どもが目や耳や口をふさいでいるショット。それだけなのだが、なんか微笑ましい。なんでかなと思うと、差別的なのかもしれないが、たぶん全員インド人だからだろうと思った。これが全員ヨーロッパ人だと、正直「なんかアートやってんな」という印象になってしまうが、インド人集団がやると、行為が無垢に見える。でもひょっとしたらこの作家が上手に、子どもに演出をつけたのかもしれない。このへんはイラン映画の素朴な魅力に似ている気もした。ただ写真がデジタル出力で荒いのと、際がしわになっているのは気になった。学生なのかな。

マーク・レッキー

街にある彫刻作品の静止画を、陽気な音楽に合わせてスライドショーにしていくだけの映像作品。たったそれだけなのに、なんだか胸を打たれた。まずは音楽があまりに陽気だったというのがある。しかしやっぱり、映るのが彫刻作品だったというのも重要だと思った。街で眺める彫刻作品とはちがう側面を映し出している。彫刻作品自体は笑えなくても、この映像のなかで登場するとなんだか可笑しいのだ。そして、見終わった後の高揚感は、やはりパブリックアートというのはほとんどポジティブな内容を持っているし、それを映像で畳み掛けることで、それぞれのメッセージの集積を観客に振りかけたようなかたちになった結果ではないか。

ティム・リー

一生懸命ドラムを叩く若い東洋人(たぶん本人)を安いカメラ2台で映している。これが安すぎて笑える。まずあの東洋人がなんであんなに自信ありげにドラムを叩いているのかが気になるし、なんでそれほど角度も変わらないアングルでカメラを分けているのかも気になる。画質もハイエイトかVHSで映しているんではないかという安っぽさで、彼は家庭用ビデオ黎明期が持つ独特の感覚を、あえて現代の作品として焼き付けようとしたのでは、などと勘ぐってしまう。たしかに家庭用ビデオが出てすぐは、どうしようもないナルシズム行為をあえて2台のカメラで記録することの意味が、現代とは違う意味であっただろうと思う。

ペドロ・レイエス

「ベイビー・マルクス」という人形アニメを展示している。マルクス、毛沢東、スターリンなど歴史上の人物を「ひょっこりひょうたん島」みたいな人形にして、そのイントロダクションの映像である。モチーフとなった人物には色々とあるが、アニメではそういう細かいことには触れない。帽子を取ったり、両手を振り回したり、そういう単純な動作とともに、彼らの名前が出てくるだけなのだが、これがもうかなりユーモラスである。そのユーモラスの中には、それなりの毒っ気みたいなものも含まれているように感じられて、そこもまた痛快である。何も言っていないのに、何か言っている。こういうのをコメディと言うんじゃないのか。監督はメキシコ人だが、スタッフはほとんど日本人。

【日本郵船海岸通倉庫】

マシュー・バーニー

言わずと知れたビョークの夫だけれども、今回はステージで行なわれた人体や物体、動物を用いたインスターレーションの記録映像。40数分もあったが全部見てしまった。やっていることはめちゃくちゃで、下半身が裸の女の人がアクロバットな姿勢で放尿したり、モチーフを飾る人の頭部が生きたイヌだったりするのだが、そういうのを除いてもおもしろかった。あれが何でおもしろかったのかうまく言葉にできない。でも別のアーティストでも後述するが、一つの「儀式感」が僕をとりこにしたのは間違いない。その演出のひとつに、「直に演奏する」という要素があったと思うけれど、それはけっこう大事なことだなと思った。ただ画面が小さい。

ロドニー・グラハム

タイトルは確か「いもを投げて銅鑼を鳴らす」で、まさにそのままの映像が展示されている。たまにいもが銅鑼に的中して「ぐわぁぁああん」と音が鳴る。その音がむなしい、もうほんとうに可笑しかった。良いですね、こういう何の意味も無い行為。観客が誰も笑っていないというのは気になったが、本人もいたって真面目にいもを投げているところがまた良かったりする。

ヘルマン・ニッチュ

入り口に「この作品はお客様によっては不快感を催す可能性があり…云々」と書かれていたが、ふつうに赤い大きな字で「グロ注意」と書けばよいだけの話。切り裂かれた牛に内蔵やくだものを詰め込んだり、その前で十字架に書けられた裸の男の口や女の秘部にワインを注いだり、集団で槍で突き刺そうとしたりする映像3点。残りはそれらに使ったのか、血のようなもので描かれた布などの展示。
グロい、で片付けてもいいのかもしれないが、よく考えるとべつにグロいことなんて一つもしていない。血に見えるものはワインだし、槍で人も刺してない。牛を切り裂いたといっても牛肉食べてるし、でもその組み合わせということが重要だった。そしてそれらは、人間誕生以来行なわれて来たであろう「伝統的な儀式」に対する共通イメージを連想させる。儀式というのは非日常の結集だし、そのモチーフは人間が生理的に畏怖を覚えるものである。それを強調させているのが、映像の中のどのシーンにも生でオーケストラが入って演奏していることである。これは先のマシュー・バーニーにも重なる。気持ち悪い、と言ってすぐ出て行く人もいたが、僕は彼の作品に神聖な何かを感じて会場を出た。

【横浜赤レンガ倉庫】

灰野敬二

ステージでひとりタンバリンを鳴らす記録映像。ヘッドフォン着用。ランダムに打ち鳴らしているようで椅子の位置を微妙に修正していたり、あれが幼稚園の先生で「さあみんなでタンバリン叩きましょう」と言った後にこの演奏だったらどうなるんだろうと想像したり、とても面白かったが、ああいうのって、演奏している人、聞いている人の一体感覚って大事なんじゃないのかなとは思った。ヘッドフォンは一人きりの世界だし、それはそれで楽しめるけれど、隣の人との猛烈な距離感を感じてしまい、かといってヘッドフォンをはずすと無音…。生で聞いてみたいと思った。

シルパ・グプタ

新港ピアでは写真を展示していた彼は、ここでは2本のマイクを用いたインスタレーション。シーソーのように連動して上がったり下がったりするマイクからは、ラジオの音なのか、女性がしゃべったり歌ったりする音が聞こえてくる。マイクを動かす動力源は祖末なもので、ガチガチとうるさいのだが、それが妙にBGMになっているというかアナログな雰囲気を醸し出していて、あたたかいなと思った。女性が何を言っているのかはさっぱり分からない。ライトが1灯だけマイクに当たっている。静かに歌いだす女性、けれども誰もいない。なんか良いなあ、これは。

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うーん、むちゃくちゃ長くなった…。