生物から見た世界
先日読んだ「生物から見た世界」という本は面白かった。これは、動物比較生理学者のユクスキュルという人が、今からおよそ70年ほど前に書いた本である。この本は、生物の「環世界」ということについて書かれている。環世界というのは、その生物が知覚的に感じている世界、という意味である。要するに、同じ環境を生きていても、人間が知覚する世界と、イヌが知覚する世界と、ハエが知覚する世界では、まったく違うということだ。
たとえば、ダニは目も見えないし、耳も聞こえない。味覚も無い。あるのは、光りがあるかないかを感じる光覚と、ほ乳類の皮膚線から出るという「酪酸」のニオイを感じる嗅覚、そしてほ乳類の体温を感じ取る触覚だけである。ダニは、光りをたよりに木の上によじ登り、酪酸のニオイを感じたら身を投げ出し、うまく動物の上に落ちたかどうかを触覚で確認して、血を吸う。その後は、産卵して死ぬのみである。つまり、ダニにとっては、光りがあるかないか、酪酸のニオイがあるのか無いのか、そして体感する温度が動物の温度なのかそうでないのか、この3つの要素だけで世界が成り立っている。季節が秋になって葉っぱが赤くなろうが、近くでカラスがけたたましく鳴こうが、ダニにとっては一切認識されない、何の関係もない話なのである。ダニにとっては世界はそのように認識されている。
それぞれの生物は、自分が生きるために必要な知覚機能だけを持ち、それがその生物にとっての環世界を形作る。このことは、人間が見ている世界も、それは人間の知覚機能が感じ取っているだけの限定的な世界であって、決してすべての環境世界を見ているわけではない、ということを気づかせてくれる。
この本を通して、がんばってほかの生物の環世界を疑似体験してみるのだけれど、でもそれで理解できたことも含めて、けっきょくは人間が感知できる世界での話なんだなあと思ってしまう。人間の環世界の外にはいったい何があるのか。それは僕が人間である以上、知ることは絶対にないのだろうけれど、想像を膨らませると何だかワクワクしてくる。
しかし生物間の環世界には、はっきり区別できる差が見られるが、もっと狭い範囲に目を向けても、実は人間同士でも、細かいところで、微妙にずれのある環世界のなかを生きているんだろうなと考えると、ますます興味深い。実際、最終的には他人の頭を覗き込んでみることなど不可能なのだから、目の前の他人が、僕と同じ環世界で生きている保証などどこにもない。知覚の数だけ、環世界がある。人間のあらゆるコミュニケーション活動っていうのは、芸術も含めて、けっきょく無数の環世界を、できるだけひとつの共同幻想のようなものに落とし込もうとする作業なのかもしれないな。そしてそれも、人間が生きていくために与えられた機能のひとつということなんだろう。
視野の広がる、ロマンのある本だった。