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2010.3.2

書く―言葉・文字・書

以前こういう日記を書いて、手書きで書く文章と、キーボードを打って書く文章との違いを、自分なりに考えてみたことがあった。そのとき、手書きとキーボードでは、使っている脳が違うのだなあと感じた。やっぱり手書きのほうが頭を使う。漢字を書き順から思い出さなくてはならないし、そもそもこれから書こうとする文章を、まず先に頭に思い描かないといけない。逆に言うと、キーボードだと漢字を思い出す必要は無いし、何も考えないまま文章を作ってしまう。

この本は、「書とは、触覚の芸術である」と言っている。「書く」という行為は、紙に筆が触れることであるということだ。「書く」という行為をより広げて解釈すると、畑をくわでカリカリしたりするような作業も、「かく」という動詞が使われる。そもそも書字のはじまりは、壁とか木とかに線を「掻く」ということだったらしい。そう考えると、「書く」というのは「話す」よりも歴史が深い、より原始的な行為であるといえる。

その一方で、パソコンを使ってキーボードを打つことで文章をつくる、というのは、「書く」という行為からあまりに遠い。というか、キーボードは「打って」いるわけで、そもそも行為の種類が違う。「書く」という行為があって初めて、漢字やひらがなという文字が成り立ったし、そこから書体というものが生み出されていったはずなのに、パソコン登場以後、全く別の行程を踏んで文章を作成し、でも今まで「書く」のに使っていた言語を用いている…こんなことで大丈夫なのか? というようなことを、著者は嘆いている。

本の一番最初には、「現在の日本に見られる、文化的な頽廃と失調の元凶は、言葉と文字と書(書くこと)についての近代的呪縛=神話を超えられないところにある。」と激しく現状を憂いている。正直そこまで悪影響があるのか? とは思うけれど、キーボードでの文章作成のときには、確かに「筆が紙に触れる」という行為はすっ飛ばされていて、まさにその触覚の部分に、「書く」ことだけが持っている特性がある、という筆者の主張は分かる気がする。紙に触れたら何かが記される、という結果があるからこそ、その結果を得るために、僕たちはあらかじめ文章を脳内で作成し、漢字とその書き順を思い出すのだ。そこには「言語」と「文章を作る」ことをつなぐための必然性がある。

昨年観に行ったマーク・ロスコ展ではロスコの直筆の手紙が飾られていたが、あれは笑ってしまうぐらいに、その手紙を書く時の字体が感情に左右されていて、混乱しているときの文章は、見た瞬間に混乱していると分かる。そういうことも「書く」ということの重要な要素を占める。書は、字の上手い下手、流行り廃りから、その瞬間のその人の感情や、人柄までが表現される。さらに漢字の場合は、アルファベットと違って字自体に意味があるから、その意味性も表現される。そういうふうにあらゆる要素が凝縮されているからこそ、「書」は鑑賞されるし、そういう情報の結集が簡単に葬られようとしている現状に、著者は憂いを感じているのだろう。

まあ、その感想文をこうして、キーボードで打っているわけだが…。