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2006.11.14 日常日記

偏狭なナショナリズム

そういえば、その『美しい国へ』で、靖国神社参拝についての記述があった。

それは、憲法の記述だとか、国内法における戦争犯罪人の扱いだったり、裁判所で最終的に出された結果だったりを混ぜ合わせて、とにかく参拝は合法的であって、問題のあることはひとつもないという主張だった。

そこのところに、とりあえず異論は無い。そうなんだろうと思う。
ただ本の中で、この話は次のような方向に向かう。

…だから靖国参拝を見て、偏狭なナショナリズムだとか言われるのは心外だ、と。偏狭なナショナリズムとは他国の国旗を焼くような人たちのことを言うのだ、と。

ここで僕が思ったのは、そのナショナリズムが偏狭かどうかということではなくて、それではある国において、たとえば中心に赤い円のある白い国旗を燃やすことが、はたして違法なのかどうか、ということだった。たぶん、それは違法ではないのだ。

だから安倍さんの展開で考えると、他国の国旗を焼くことについても、法律的にも何の問題も無いわけだし、まったく問題のない正当な行為と言えると思う。だから安倍さんは、「法治国家においては、国旗を焼くことも、靖国を参拝するのも合法だし、正当性がある」と主張するのが筋ではないかと僕は思う。

しかし、何だかそれも変だなと考えて、例えば感情論をベースに敷いてみて、靖国参拝は正しいけれど、他の国の国旗を焼く行為は許されないと考えるとするなら、そこには次のような発想が欠如しているということになる。

それは、「他の国の人にとっては、靖国参拝は”国旗燃やし”と同等の不快感があるのではないか?」という発想である。

つまり僕が言いたいのは、自分の国のナショナリズム的行動と、他国のそれとを比較するときに、法律論なら法律論同士で、感情論なら感情論同士で比較しないと、話が意味の分からないことになるのではないかと思ったのだ。

自国のある事柄が、法律論によって正当性が認められるなら、それは他国についても同じであるべきだと僕は思う。感情論についてもそうだ。

もしそのバランスがいびつであるならば、例えば、自国には認められるものが他国には認められないと主張するのであれば、それは”偏狭なナショナリズム”と指摘されても仕方が無いのではないかと僕は思った。