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2006.11.25 展覧会

森村泰昌展

SHUGO ARTSで行なわれている森村泰昌の展示へ。

今回は写真で、実際に戦後史を騒がせた事件を再現するという作品である。

ひとつは、社会党かなんかの政治家が演説しているところに右翼の青年が出てきて、包丁で刺しちゃう事件。もうひとつは、三島由紀夫が割腹自殺する前に自衛隊員の前かなんかで演説した事件。さらにベトナム戦争のベトナム兵の写真というのもあった。

もちろん、出てくる人物のすべてが森村泰昌。その合成はやはり巧みで、デジグラフィとかいう文脈で語られるのもよく分かるけれど、彼の作品の面白さというのは、状況を再現する過程での”発見”という部分にあると思う。

当然再現をする過程で、もとになる作品の目立つポイント以外のところも徹底的に調査したり、考えたり、想像したりする。そうすると、完成した作品というのは、そうした時代背景や空気感みたいなものが、ある意味もとになった本物の写真よりも、前面に押し出されてくるように感じられるのだ。

たとえば三島由紀夫という人物を再現するときに、ただ演説する構図だけをまねているのでは、雰囲気が変わってしまう。そこで、おそらく森村氏は、三島由紀夫の考え方を徹底的に調べたはずだし、着ている服の意味、時代性、空気感、緊張感、その他もろもろを意図的に積み上げていって、ある意味で現実よりも現実らしい風景を作ってしまう。

それは、変なたとえだけれど、タモリが外国人の物まねをするときに、その言葉がデタラメであるにも関わらず、その国の人が喋るのよりもその国の人らしく感じてしまうのと似ている気がする。彼がデタラメ韓国語をやるとき主軸になっているのは、韓国語の正確さではなく、その国民らしさといったところなんだと思う。

文化庁メディア芸術祭かなんかの作品で、フェルメールの絵画を徹底的に分析し、3Dで再現する作品があった。非常におもしろい試みだったが、なにか物足りなさを感じたのは、それがあまりに正確すぎたからではないかと考える。

推測なので間違っているかもしれないが、森村泰昌の作品は、真実の再現以上に、多分に演出の要素(つまり、調査の結果に基づく、森村氏の主観)が含まれているのではないか。各部分でそれぞれ、森村氏が発見したことについて、少しだけ誇張しているように感じられる。それが上手いことじわりと表出されて、ただの再現作品なのに、どこかユーモラスで、訴えかけてくるような力を感じさせるのではないか。こうした単なる模倣を超えた、「らしさ」の再現のなかに、僕は面白さを感じたんだと思う。

そういえばタモリのものまねが、それまでのものまね芸と一線を画していたのは、「それが思想のものまねをしているから」だと、wikipediaかなんかに書いてあったのも、いま思い出した。森村泰昌の場合も、単なるセルフ(=客体として把握される自分)ポートレート作家というよりも、エゴ(=主体的な意識)ポートレート作家と呼ぶべきなのかもしれない。