keisukeoosato.net

2004.7.22 日常日記

ノスタルジックな夜

「思い出」という言葉がひどく嫌いな時期があった・・・。もっと正確に言うと、「思い出づくり」という言葉が好きではなかった。ものごとに、「思い出づくり」という要素が見えた瞬間、僕は意気消沈し、がっかりし、急激に冷めてしまうのであった。それで、合唱コンクールをボイコットしたり、「卒業アルバムに自分を載せるな」と叫んで体育教師に胸倉をつかまれたり、卒業式を欠席したりしたのである。

思い出が未来に据えられるのが好きではなかったのだろう。そのためのわざとらしい演出に無理に迎合しなければならない、ということに息苦しさを感じたのである。高校時代を中心にそういう屁理屈ばかり振りまいていたわけで、僕は周りの人たちの一生懸命な「思い出づくり」に、たくさんの水を差していたのだ。

ほかの人がうまく「思い出づくり」と付き合い、適度に「美しい高校生活」といったものを消化してきたのに対して、くだらない屁理屈ばかりを並べていた僕にとっては、ノスタルジー感情は消化できないまま肥大化し、観念化され、僕の頭の中に、アスファルトに着いたガムのようにへばりついてしまったのではないだろうか。

そういえば、岩井俊二という映画監督は、高校時代に味わえなかった青春を、味わえなかったぶん映画の世界で表現しようとしているのだ、と何かのインタビューで語っていた。僕は岩井俊二監督の描くノスタルジーには共感しつつも気持ち悪さを感じるので、なんともいえないのだが、まあしかし僕が感じているところと似ているのかもしれない。

その日の夜、僕は高校時代の友人と、溝の口でさんざん飲んでいた。もう12時もまわり終電を気にかけるような時間で、かなり酔っていてよく覚えていないのだが、誰かが提案したのである。「よし、高校に行こう。」「多摩川の三本松で、飲もう!」。

僕が通っていた高校は、多摩川のすぐ裏にあった。多摩川の土手には三本松という、実際には四本の松が立っている目印があって、そこは授業をサボってぼんやりする場所であり、なにか行事があればそこに集合して練習する場所であり、何かが終わればその松の下でこっそり宴会を開いたという場所であった。

川崎発稲城長沼行きの南武線最終列車に乗って、真夜中の宿河原駅に着いた。あらゆる建物のシャッターが閉まっていた。高校の前のファミリーマートで、缶ビールと花火を買った。
 
真っ暗な高校の、校門の扉が開いていた。いけないことだと知りつつも、中に入ってみた。真っ暗な校舎は、逆にあらゆる想像を膨らませた。暗くて実体がはっきりしないほうが、むしろ都合が良かったのだ。色んな話をした。学食の前で、突然灯りがついて、監視カメラに撮影された。でもまぁ、なんだか、このまま捕まってもいいような気がした。僕はいろいろあったけど、やっぱりここが好きなんだなぁ、と思った。

高校を出て、三本松の下についた。三本松の周辺は誰かの土地になっていて、ネットが張られて入れないようになっていた。それでもネットの下をはって侵入し、中にあった椅子を並べて缶ビールを開けた。花火に20本いっぺんに火をつけて、振り回して、打上げ花火を友だちの手に無理やり持たせて爆発させた。なにやら意味不明な言葉を叫んで、大声で歌って、置いてあった車の上に飛び乗って、もうどうにでもなれ、と思った。はしゃぎすぎて、一眼レフカメラのふたが無くなり、フードが割れた。でもそんなことはもうどうでも良かった。僕は意味もなく全力で駆け回った。なんだか涙が溢れてきた。それから、椅子で囲んで、いつになく真面目な話をした。
 
気づくと、朝日が昇り始めて、じんわりと空が明るくなっていた。夢も覚めた。あまりに心地が良くていつまでもそこに居たくなるけれども、それはこの土手に置いておいて、心地が良くない現実の中で、やっぱり暮らしていかないといけない。ノスタルジーと現実は、そういうバランスの中で存在しているんだなあと思った。