ぼくら、20世紀の子どもたち
ヴィターリー・カネフスキー監督。前作「動くな、死ね、蘇れ!」「ひとりで生きる」の続編。ロシアのストリートチルドレンや、犯罪を犯して収監された少年や少女たちを追うドキュメンタリー作品。
たくさんの、小学生くらいの子供たちが出てきて、缶ビール片手にタバコを吸ったり、窃盗の自慢をしたりする。そんな話をひと通り聞いた監督は、どの子にも、じゃあ好きな歌を歌ってごらん、としむける。ボロボロの赤いセータを着た、目がくりくりして可愛らしい少年が、ニコニコしている。ところが歌いだすと、とたんに悲しい目をして、ものすごく暗い、明日のない歌を歌ったりする。明るい歌や、大人びた歌、何を歌うかはその子供によって違うけれど、歌っている間だけ、子供の心象風景をのぞくことができる。
犯罪を犯した少年や少女の中には、前作まで少年ワレルカを演じていたパーヴェルもいる。彼も窃盗を繰り返し、収監されていたのだ。なぜ国際的な映画祭で評価された映画の主役が、このような状況になったのか、それは分からない。けれど、事実として彼はその中にいて、これまでの映画の役柄と同じ、悩ましげな表情をしている。そして、収監されていることを聞いた、前作の少女役の女優ディナーラが駆けつける。そして、やはりふたりで歌を歌う。その歌は、「動くな、死ね、蘇れ!」のラストで、ふたりが線路で歩きながら歌った歌。パーヴェルの表情も、このときだけは優しくなる。
人にとっての歌の意味、そして監督が、彼らやほかの子どもたちに歌わせる意味を考える。歌とはつまり、「内面の居場所」といって、良いものなのではないか。たとえ現実のどこかの場所に、居場所がなかったとしても、歌っているときだけは、自分の内側にある、自分だけの居場所に、瞬間的に帰ることができる。だから、前作でソビエトに抑留されていたヤマモトは日本の民謡を歌ったし、子どもたちは、歌うことで、その心象風景を表に出せていたのではないか。
パーヴェルにとって、主演していた映画の中の歌が、その「居場所」になってしまっているという現実が、とても残酷に感じられた。パーヴェルは監督に「次の台本はできたの?」と聞いたり、ディナーラに「刑期を終えたら、映画学校に行きたい」と言ったりする。自分の重要な「居場所」であった、映画の世界に戻りたいのだ。けれど、現実にはそれができなさそうな、彼の繊細さや、弱さがある。だから現実に、収監されてしまっているのだ。彼がもう映画の世界には戻れないことは、彼自身も多分、分かっているはずだ。皮肉なことにその絶望が、また彼の魅力を、滲みださせているという感じがする。
これは完全に想像だが、カネフスキー監督は、そのことに対する何かしらの罪の意識みたいなものがあるのではないかと思った。この3部作の圧倒的なリアリティや魅力は、明らかに、主役であるパーヴェルによるものが大きかった。ある意味、監督は、もはや彼なしで映画は撮れないというくらいの、とんでもない逸材を見つけてしまったのかもしれない。でも、それは、パーヴェル自身の人生に、結果的には、あまり良い影響を与えなかったのかもしれない。そういう部分と、カネフスキー監督が、その後、1本のドキュメンタリーを撮って以降、映画界から姿を消してしまったことと、何か関係があるのかもしれないな、と。
こういう想像をするのは、結局カネフスキー監督の作品は、それくらい、現実と虚構の境界線が曖昧なのだ。監督自身の実体験の延長線上に、最初の2作があり、しかしフィクションであるはずのその世界は、確実に、ノンフィクションの世界である今作と繋がってしまっている。主役を演じたパーヴェルは、役柄である少年ワレルカ自身だったかもしれないし、ワレルカはパーヴェルだったのかもしれない。虚構と現実のあいだをさまよう人間劇を描ききってしまったこの3作を観て、こういう映画に出会えてよかったと心底思ったし、同時に映画ってこわいなとも思った。