ボーリング・フォー・コロンバイン
コロンバイン高校での銃乱射事件の犯人は、マリリン・マンソンのファンだった。それで、「マリリン・マンソンが事件の原因なので、マリリン・マンソンは害悪」という訳の分からない考え方が、世の中を支配したことがあった。ちょうど僕が高校生のときである。
そういえばその頃、カタブツの英語の先生が、クラスにカセットデッキを持ってきて、マリリン・マンソンのとある曲を流し始めた。流す前と流し終わった後に、「マリリン・マンソンは有害な歌手であることが分かったでしょう、だから聞かないようにしましょう」と訓示めいたことを言った。たまたまマンソンを聞くことが多かった僕は、その偏見に満ちた訓示に妙に腹が立って、先生を指差して「それはおかしい、そういうことを教壇で言うのはおかしい」と軽く口論になった。その後も気持ちが収まらなかったので、放送委員という立場を利用して、わざと昼放送でマリリン・マンソンを流したりした。
こうしてマリリン・マンソン・ブームが過ぎ去ったいま、改めて振り返ってみると、彼の音楽を聴くことは、健全すぎるくらい健全なことのように思える。ああいう音楽なり芸術なりが、心のわだかまりやネガティブな要素をうまく昇華させてくれることもあるだろう。事件の原因は、もっと他のところにあったのではないかと考えてしまう。
「ボーリング・フォー・コロンバイン」という作品は、コロンバイン高校の事件から浮かび上がる、そういう身近な問題をじりじりと考えたエンターテイメント作品である。マリリン・マンソンのことについては、彼は作品でこのようなことを主張している。「もし、事件の原因が、犯人がいつも聴いていたマリリン・マンソンだったとしたら、犯人が事件の前にしていたボウリングは、なぜ事件の原因になると考えられないのか?それこそ直前にやっていたことなのに」と。
作品は、コロンバイン高校の話からはじまって、アメリカだけが飛びぬけて銃で殺される人の数が多いことに触れて、それは一体なぜなんだろうと考え始める。そして最終的には、マスコミがさんざん人を脅かすようなことを煽って、人々が他人のことを信用できなくなっているからだ、という結論に至る。なぜマスコミがそんなことをするのかというと、その煽りによってもたらされる経済利益が、一部の人たちに向かってゆくからだろう。マリリン・マンソンを無理やり悪役に決め付けたのも、そういう「恐怖の刷り込み」と深く関係があると言われている。
アメリカ人は他人に対して過剰に怯えるということの例として、アメリカではドア鍵をいくつも掛けるということを紹介する。それに対してカナダでは、鍵をまったく掛けないことが分かる。すると、監督は抜き打ちで各家庭のドアを勝手に開けてゆく。その後勝手にドアを開けた後、住民と軽く挨拶をして一言、「僕を撃たないでくれよ」。するととっさに、「撃つわけないじゃないか」という返事。それは、例えば日本人がハロウィンのパーティの日に撃ち殺された事件をも連想させる、かなりブラックなジョーク。
だけれど、こういう重要な事をおもしろおかしく伝えるからこそ、事の本質がより感覚的に伝わるということはあると思う。「僕を撃たないでくれよ」という言葉は、監督個人の言葉ではなくて、一般的なアメリカ人の感覚として、わざと口にしたものだろう。しかし、カナダの住民が、彼個人の言葉として出した「撃つわけないじゃないか」という返事は、監督の質問に呼応して、一般的なカナダ人の感覚を代表する言葉になっている。
この作品はこんなふうに、全体的に娯楽にまみれた、ずいぶんエンターテイメントな味付けで、彼の主張を解きほぐして紹介する。放送禁止用語連発のお下劣アニメ「サウス・パーク」をつくったお兄さんによる、独断と偏見に満ちた「アメリカ人が銃を持つようになった歴史」のアニメ。各国の年間銃殺害者数を示すための、過剰に演出された映像とテロップ。こうしたユーモア感覚に溢れた映像が、巧妙に練られたポップなテンポに乗って、次々と打ち出される。見ているほうは、どちらかというと感覚的に、あるいは扇動的に、アメリカ銃社会への疑問や憤りを感じるような仕組みだ。
ここで、自分で書いた言葉をもう一度繰り返してみたい。この作品は、「どちらかというと感覚的に、あるいは扇動的に、アメリカ銃社会への疑問や憤りを感じるような仕組み」であるという言葉だ。・・・僕は、このやり方は、いわゆる彼が批判している、「マスコミがさんざん人を脅かすようなことを煽る」手法と、同じやり方じゃないか、という気がしてならない。この作品から感じられるアメリカン・テレビショー的な部分、妙にポジティブなロックンロール。彼は意識的にそうしたのではないのか、と想像が膨らむ。
それは、よく考えずに受け止めると、致命的のようにも捉えられる。「オマエも一緒やんけ」と突込みが入るかもしれない。だけれど、僕はそこに、どちらかというとポジティブな印象を受ける。そこには、彼がアメリカ人であるということ、もっと言うと、実際にアメリカでTV番組を作っているジャーナリストであるという彼の立ち位置を、強く感じさせているからだ。彼は、この問題を外側から指摘するのではなく、内側から、内側のやり方で、追究していきたかったのではないだろうか。彼は、きっと僕らが思っているよりもずっとこの問題に危機意識を抱いているのではないかなと思う。現実的に、いまのアメリカ国民に目を覚まさせる方法を模索していたのではないだろうか。
そういうふうに考えると、彼にとっては、これはドキュメンタリー映画ではなく、活動家としての宣伝ツールに過ぎないという気がする。もしこれが、遠巻きに中立とか公平とか言っているようなディレクターだったとしたら、コロンバイン高校の被害者のためにKマートの銃弾を撤去させようとはしないだろう。全米ライフル協会の会長さんに、銃で殺された少女の写真を持って、「この写真を見てやってください」と嘆願したりはしないだろう。この作品にただ映るのは、自分の思う正義のために、自分の立ち位置から活動をして、それを達成させようとする、ひとりの男の存在である。その存在が、こういうご時世の僕らに、共感を持って迎えられたのではないか。