友だちのうちはどこ?
イランの映画である。僕は殆ど映画を見ないくせに、なぜかイランの映画には惹かれるものがあって、ついつい見てしまう。ところで、イランとはどんな国か。まあ僕もいろいろと書籍やHPなどを見てはみるが、結局映画を見るのが一番早い。この映画の監督であるキアロスタミ監督と黒澤明監督の対談をめくると、黒澤明の印象深い言葉がある。
「映画には国境が無い。映画を観ればその国の文化や習慣を知ることが出来ます。(中略)僕や孫達はあなたの映画を観て、イランという国を知りました。あなたの映画が僕達をイランの人々の生活のなかに連れて行き、彼らのことを教えてくれたのです」(晶文社「そして映画はつづく」より抜粋)
日本人にとって、イランとは遥か遠い国、そして情報も皆無である。「テヘランの水道水は飲める」なんて誰も知らない。しかし映画を観るといろいろ知ることが出来る。紅茶をよく飲む。洗濯をする女性の語気の強さがほほえましい。ひょっとしたら、作品の中身というよりは、「イランを知る」ということに感動しているのかもしれない。でも、それも映画のおもしろさのひとつと言っていい気がする。
「友だちのうちはどこ?」は、友だちのノートを間違えて持って帰ってしまった少年が、ノートを返すためにその友だちの家を探すというストーリーである。この単純極まりないストーリーで、85分をまったく飽きさせない。よく言われることだが、アメリカで何十億かけて、数十分に一回セックスを入れてるような映画なんかより、よっぽどハラハラする。この映画は、なぜハラハラするのだろうか。
それは、監督が人の生活や感情について、徹底的に観察をし、さらにそれをとても丁寧に表現しているからだろう。例えば、「来週、宿題を忘れたら退学だ」と先生にさんざん脅かされた生徒が、結局宿題を持ってきていない。先生が「宿題はやってきたかな?机に出しなさい」と言うが、出すものが無い。先生はほかの生徒の宿題をチェックしていき、どんどん自分の番が近づいて来る・・・。そのひとつひとつの仕草。心臓の鼓動の音まで聞こえてきそうな表情・・・。
宿題を出すものが無いとき、子供はどういう仕草をするのか?これは分かりそうで、分からない。この映画では、周りの様子をチラチラと見ながら、出すものが無いのにカバンの中を手で探るフリをする。そして宿題とは関係の無い紙切れを出して、その場をやりすごそうとする・・・。その観察力には、驚くばかりである。子供時分には当たり前の所作なのかもしれないけど、大人になってそれを再現するのは難しい。
こうした観察が蓄積されていくと、なんだか人が生きている感じがしてくる。そこに子供が居る。先生が居る。老人が居る。街に人が歩いているが、その人はきっと家に帰ってごはんを食べる。街も生きている感じがしてくる。子供は友だちの家を探す。その家はきっと”在る”。しかしその家が在るポシュテという街は遠い、知らない街。街が生きている感じがすればするほど、家を探すのが困難だということが、実感として分かってくる。だからハラハラするのだ。
さらに、作品の合間に挿入される、大人たちのストーリーと無関係な会話が、この映画の不思議な味わいを生み出している。ドア職人のエピソードがいい。まず中年のドア職人が、街のかたわらで、老人に鉄のドアを勧めている。「アンタの家のドアは壊れている。鉄のドアは一生壊れない。風邪も引かない、だから鉄のドアにしなよ」と。老人は「今のままでいい」と頑なに拒否する。中年のドア職人は「親切心で言ったのに!」とプリプリしてロバに乗って帰っていく。
まったく別のシーンで、老人のドア職人が出てくる。ドア職人は、主役の子供に、自分が作った窓やドアを見せてまわって「このドアは40年前に作ったんだ」などと自慢する。「どうだ、少しも変っていない」と。それからこう続く。「今はどの家も鉄のドアに変えてしまう。わしの作ったドアのどこが悪かったのだろうか?鉄のドアは一生壊れないそうだ。だけど一生って、それほど長いものなのかね?」
この「ドア」をめぐる会話の魅力はいったいなんなのだろうと思う。子供が友だちにノートを返すのには関係ないけれど、この主役の子供と彼らの会話が少しだけ触れる瞬間が、なにかものすごくリアルなのだ。それぞれの生活があって、その生活の中で子供に触れ合っている。みんなそれぞれの持論を持って生きている。中年のドア職人と、老人のドア職人・・・それぞれのこだわりがある。そのこだわりの在りようが、主役の子供のこだわりも、同じように真剣なこだわりであることを浮き上がらせている。
子供だって子供なりのこだわりがある。「とにかく友だちのノートを返さないと・・・」でも、そのこだわりは大人にはまったく響かない。友達の家について街の大人に尋ねても「さあね」「知らない」と素っ気無い返事ばかりだ。でもそれを悪意に感じないのは、誰もがそれぞれのこだわりの中で生きていて、他のひとのこだわりについて考えられないからではないか。そして同じく子供だって、中年ドア職人の必死のこだわりについて考えられない。子供にとっては、ドアが鉄だろうがなんだろうがどうだっていいからである。
そのこだわりの在りようというのは、大人でも子供でも老人でも、きっと同じく普遍的に持っているものであるだろう。だからこそ、「友だちのノートを返すために街を駆け回る」という行為も、それを誰もかまってくれない苛立ちも、共感性を持って受け入れられるのだ。主役のアハマッド君は、こだわりを持つ人間のシンボルとして描かれているのだろう。僕は彼のこだわりに、ちょっとした希望や勇気を与えられた。