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2011.2.8 映画

悲しみのミルク

クラウディア・リョサ監督の「悲しみのミルク」というペルーの映画を、招待券をもらったので、観に行った。

お母さんを亡くした娘が、お母さんを弔ってあげるまでの、精神的な風景を丁寧に描いたお話。

このお母さんは、過去ペルーに内戦があった時代に、ゲリラに性的暴行を受けた上に、夫を惨殺されてしまった。そのときちょうどお腹に宿っていたのが主人公の娘ファウスタであり、ファウスタはお母さんの苦しみを、母乳を通じて受け継いだと信じている。(実際にアンデスでは、「母乳で強い悲しみが伝染する」というような言い伝えがあるようだ。)そして、彼女は自分の身を守る為に、子宮の中にじゃがいもを入れて過ごしている。彼女は母をきちんと弔う為にお金が必要で、都会の音楽家の家でメイドさんをする。そこで出会う父親ほどの年齢の庭師との出会いが、彼女の苦しみの中にスッと入ってくるような存在で、彼女の心を少しずつ変えていく。街では今日も結婚式が行われている。

というような作品なんだけれども、とてもあらすじを書きにくい。というのも、この作品のおもしろいところは、ひとりの個人の心情の変化を描きながら、それらはすべて、もう少し大きな規模、つまりその時代に生きている同じ境遇の女性たち全体の心情を描くための比喩になっていることだからだ。そのための仕掛けとして、「母乳で強い悲しみが伝染する(話の中では恐乳病と呼ばれている)」という設定がある。

ファウスタは、母の苦しみが伝染しているため、母のトラウマ的な風景を見ると、鼻血が出てしまう。それは、あらすじ上はただの鼻血なんだけれども、その鼻血は、おそらくペルー内戦を通じて陵辱されてしまったすべての女性の血でもある。そういう、多くの人が被害に遭ってしまった、目に見える形ではなかなか引き継がれてこなかった歴史上の悲しみや遺恨を、すべて一身で背負って、現実世界の中で、実際の現象として形にしてしまうのだ。そういうふうに描かれるさまざまな感情が、劇中で繰り返し行われる「歌」と混ざり合って、ますます暗示的に表現される。

じゃがいもを子宮に入れるくだりも同じで、子宮というのは本来何かを育てるためにあるものなのに、そこから生えた芽を切り取ってしまう。じゃがいもの芽をはさみで切る行為自体は、本来たいした作業じゃないはずだけれども、彼女はグッと力を入れて、苦しそうに切る。それは、彼女だけではない人たちの、すべての性的な恐怖心の比喩でもあるし、本来そこに身ごもるものでなかった命のことを暗示しているようでもある。

つまりこの作品は、個人の話というよりは、歴史の移り変わりの中で、どういうふうに世代的な悲しみや苦しみが引き継がれていくのかということを語っている。その一方で、劇中には結婚式のシーンがたくさん描かれる。それは実に陽気なパーティの風景である。結婚式や、お葬式というのは、家族が「引き継がれていくもの」ということを象徴する儀式だ。ファウスタは、悲しみや苦しみだけを引き継いでいるから、お葬式にばかり目が向いてしまうけれども、その一方で、畳み掛けるように、さまざまなカップルの結婚式が執り行なわれる。明るい音楽を歌い、楽しく踊る。時代は変わって行くのだ。引き継がれるのは悲しみや苦しみだけではないのだ。そうした中で、ファウスタが、さまざまな苦悩を乗り越えて、じゃがいもの花に顔を寄せるシーンは、とても美しくて、希望に満ちあふれていた。良い映画だった。

2010.7.22 映画

ぼくら、20世紀の子どもたち

ヴィターリー・カネフスキー監督。前作「動くな、死ね、蘇れ!」「ひとりで生きる」の続編。ロシアのストリートチルドレンや、犯罪を犯して収監された少年や少女たちを追うドキュメンタリー作品。

たくさんの、小学生くらいの子供たちが出てきて、缶ビール片手にタバコを吸ったり、窃盗の自慢をしたりする。そんな話をひと通り聞いた監督は、どの子にも、じゃあ好きな歌を歌ってごらん、としむける。ボロボロの赤いセータを着た、目がくりくりして可愛らしい少年が、ニコニコしている。ところが歌いだすと、とたんに悲しい目をして、ものすごく暗い、明日のない歌を歌ったりする。明るい歌や、大人びた歌、何を歌うかはその子供によって違うけれど、歌っている間だけ、子供の心象風景をのぞくことができる。

犯罪を犯した少年や少女の中には、前作まで少年ワレルカを演じていたパーヴェルもいる。彼も窃盗を繰り返し、収監されていたのだ。なぜ国際的な映画祭で評価された映画の主役が、このような状況になったのか、それは分からない。けれど、事実として彼はその中にいて、これまでの映画の役柄と同じ、悩ましげな表情をしている。そして、収監されていることを聞いた、前作の少女役の女優ディナーラが駆けつける。そして、やはりふたりで歌を歌う。その歌は、「動くな、死ね、蘇れ!」のラストで、ふたりが線路で歩きながら歌った歌。パーヴェルの表情も、このときだけは優しくなる。

人にとっての歌の意味、そして監督が、彼らやほかの子どもたちに歌わせる意味を考える。歌とはつまり、「内面の居場所」といって、良いものなのではないか。たとえ現実のどこかの場所に、居場所がなかったとしても、歌っているときだけは、自分の内側にある、自分だけの居場所に、瞬間的に帰ることができる。だから、前作でソビエトに抑留されていたヤマモトは日本の民謡を歌ったし、子どもたちは、歌うことで、その心象風景を表に出せていたのではないか。

パーヴェルにとって、主演していた映画の中の歌が、その「居場所」になってしまっているという現実が、とても残酷に感じられた。パーヴェルは監督に「次の台本はできたの?」と聞いたり、ディナーラに「刑期を終えたら、映画学校に行きたい」と言ったりする。自分の重要な「居場所」であった、映画の世界に戻りたいのだ。けれど、現実にはそれができなさそうな、彼の繊細さや、弱さがある。だから現実に、収監されてしまっているのだ。彼がもう映画の世界には戻れないことは、彼自身も多分、分かっているはずだ。皮肉なことにその絶望が、また彼の魅力を、滲みださせているという感じがする。

これは完全に想像だが、カネフスキー監督は、そのことに対する何かしらの罪の意識みたいなものがあるのではないかと思った。この3部作の圧倒的なリアリティや魅力は、明らかに、主役であるパーヴェルによるものが大きかった。ある意味、監督は、もはや彼なしで映画は撮れないというくらいの、とんでもない逸材を見つけてしまったのかもしれない。でも、それは、パーヴェル自身の人生に、結果的には、あまり良い影響を与えなかったのかもしれない。そういう部分と、カネフスキー監督が、その後、1本のドキュメンタリーを撮って以降、映画界から姿を消してしまったことと、何か関係があるのかもしれないな、と。

こういう想像をするのは、結局カネフスキー監督の作品は、それくらい、現実と虚構の境界線が曖昧なのだ。監督自身の実体験の延長線上に、最初の2作があり、しかしフィクションであるはずのその世界は、確実に、ノンフィクションの世界である今作と繋がってしまっている。主役を演じたパーヴェルは、役柄である少年ワレルカ自身だったかもしれないし、ワレルカはパーヴェルだったのかもしれない。虚構と現実のあいだをさまよう人間劇を描ききってしまったこの3作を観て、こういう映画に出会えてよかったと心底思ったし、同時に映画ってこわいなとも思った。