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2010.3.14 映画

アニエスの浜辺

アニエス・ヴァルダ監督「アニエスの浜辺」

ヌーヴェル・ヴァーグの巨匠なんでしょうが、映画をまったく見ないので、知りませんでした。ごめんなさい。でも、知らないで見ても面白かった。80歳くらいになったアニエスさんは、自分や自分と映画の関わりを、セルフポートレイトという形で振り返っていく。つまり、自分で自分のことを撮ったドキュメンタリー作品。

彼女の記憶や真実についてのスタンスが良い。自分で自分の事を振り返ると、つい美化してしまったり、脚色してしまう。そのことを嫌う人もいるだろうけれども、彼女の場合は、「それが記憶というものだ」というふうに思っているんじゃないかと思う。だから、自分の記憶の中に起こっている出来事を、飾りをつけて、人に演じさせる。しかも、演じさせているということがハッキリと分かるように、演じさせる。大事な再会のシーンで、「久しぶり、会いたかったよ!」というシーンを、何テイクもさせる。その何テイクも撮っている様子も、映像の中に組み込む。記憶というものは、自分のものなんだけれど、アニエスさんは、どこか突き放している。いま現在の自分はノンフィクションだけれど、過去は限りなくフィクション的だと言わんばかりに。でもそのほうが、記憶”らしさ”があるなと思った。

しかも、その「記憶らしさ」を表現するにあたっても、くそ真面目ではなくて、どこか愛嬌がある。自分のオフィスのことを振り返るシーンでも、浜辺が好きだからと、都会の真ん中に砂をバラまいて仮想砂浜を造り、その上にテーブルを置いて、オフィスだということにしている。実際はそんなオフィスではないということは誰でも分かるのだけれど、でも彼女が自分のオフィスをどういうふうに捉えていたのか、どういう思いを持っていたのか、そういうことが何となく伝わってくる。

僕はこれまでの人生の中で、おじいちゃんやおばあちゃんと接する機会が少なかった。おじいちゃんという存在はほぼ記憶に無いし、おばあちゃんとは一緒に暮らしていた時期もあったけれど、あんまり話さなかった。だから、アニエスさんが語る、ナイーブな心境はとても新鮮だった。当たり前なんだろうけれども、おばあちゃんも、現在進行形で、色んなことを感じたり、悩んだりしているんだなあと思った。すべての感情が赤裸々に表現されている。その赤裸々さだけを取り出したら、アニエスさんが考えたりしていることは、10代の多感な少女と何一つ変わらないな、と思った。姿や形は老いていくけれど、根本的な感受性みたいなところの老いというものは感じさせない。自分のおばあちゃんも、ひょっとしたらそうだったのかもしれないな。

結局、老いて変わってゆくのは、そういう自分の内側みたいな部分を、100%さらけ出すか出さないか、またはどれくらいさらけ出すのか、というさじ加減だけなんじゃないかなあ、と思った。さらけ出すための体力も必要だろう。アニエスさんも、まだ体力が残っているうちに、自分や映画、そして人との関わりについて、さらけ出せるだけさらけ出しておきたかったのかなと思った。

2010.3.7 映画

アンヴィル

This Is Thirteen~夢を諦め切れない男たち~

晴れて下高井戸シネマの会員になり、もらった招待券で見たのが「アンヴィル」という映画だった。

これはアンヴィルというメタルをやっているバンドを取り上げたドキュメンタリーだが、このバンドが売れたのは最初だけで、その後数十年はカナダの片田舎の食品工場で働きながら、細々と地元で活動している。たまたま変わった古参のファンが思いつきみたいにヨーロッパツアーを企画して、ルーマニアとかで十人くらいを相手にライブをやったりするのを丁寧に追う。見ていると、なぜこのバンドがメジャーになれないのかが分かってくる。演奏は上手く、情熱的で、曲も聞ける。愛嬌があって程よくバカ。資質は問題ないのだが、たぶん音楽に対して素直すぎたということなんだろう。

印象的なのは、ヨーロッパツアー中、どこかのライブハウスに数時間も遅刻してしまったシーン。演奏はしたのだが、ライブハウスの主は、遅刻をしたのだからギャラは払えないという。メンバーは、遅れたのは悪かったけど、ちゃんと演奏もしたし、お客さんも盛り上がっていた。だからギャラがほしいと言って、大げんかになる。そこに全然関係のない弁護士が出てきて、全部マネージャーが悪いんだ、と主張しはじめる。このマネージャーは確かにツアー全般に渡ってバカばっかりやらかすのだが、ヨーロッパツアーを企画したのは彼女だし、何よりアンヴィルというバンドと、その音楽に対して強い愛情がある。メンバーはそれで十分だと思っているのに、弁護士は、彼女さえ居なければ、すべてはうまくいったんだ、と言う。

けっきょくは、音楽 vs ビジネスという話なのだ。弁護士が言うような合理的なマネージメントが行なわれれば、興行的には良いかもしれないけれど、それって音楽にとってどれほど良いことなの? という部分で、アンヴィルのメンバーは、天然ボケなマネージャーのほうを選択したのだと思う。きっと、彼らは長い音楽人生のなかで、あらゆる局面でそういう選択をしてきて、つまりビジネスよりも音楽を選択してきて、それが積み重なっていく中で、メジャーシーンから落とされてしまったんだろう。彼らは、格好いい音を出して、みんなで楽しかったら、それが音楽なんだと信じている。それは当たり前なはずなのだが、ツアーやアルバム制作の過程で出会う「音楽業界人」たちは、音楽ではなくビジネスをやる人ばかり。本当はこういうのは二極されるものじゃないんだろうけれど、彼らが極端に「音楽」に寄りすぎるから、そうでない人たちの、ビジネスな部分が目立って見えてしまう。

でも家族や、観客は違う。合間合間で、メンバーの家族や親戚へのインタビューシーンが挟まれるのだが、皆が皆、アンヴィルについて話しているだけで、ボロボロと涙をこぼしてしまう。今のままではダメだ、と真剣に怒っている人もいるが、どこか見守っているような温かさがある。数少ない観客は、完全にイカれた目つきで、恥も外聞もなく、全力で「アンヴィル!」と叫んでいる。メンバーも、客に向かって「音楽業界なんて、ライブハウスのギャラも払わねえ、本当にファッキンなところだよ!」と応酬する。音楽のことが好きな人には愛され、ビジネスが好きな人には敬遠される、そして世界には音楽が好きな人よりも、ビジネスが好きな人のほうが多い…そんな中で、「正直者がバカを見る」を地で行っているメンバーの人柄が、とても魅力的に感じられた。

でも「正直者がバカを見る」ことって、案外日常生活にあることだから、この映画を見る人は、音楽以外の人も、自分の置かれている状況に構図を当てはめながら、そのうっぷんを晴らすように楽しめる作品なのかもしれない。というか、僕がそういうふうに楽しんで、だから面白かったということかな。