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2006.3.23 映画

ロジャー&ミー

ロジャー&ミー [DVD]

マイケルムーア監督「ロジャー&ミー」を見た。

最近読んだ森達也の「ドキュメンタリーは嘘をつく」という本では、「ロジャー…」を傑作、「ボーリング・フォー・コロンバイン」をフツウ、「華氏911」を駄作みたいな書き方していた。

僕の中では「ボーリング」はやっぱりナンバー1かな。「ロジャー」は、その習作といった感じだった。アメリカのGMという会社がフリントにある工場をすべて閉鎖、失業者が溢れだすことを追ったドキュメンタリー。

マイケルムーアが、GMの社長であるロジャー・スミスに突撃しに行ってことごとく追い出される。ロジャー・スミスがクリスマスパーティで平和な演説をしている頃、失業者は家賃が払えなくて家を追い出されている。このふたつを巧妙に組み合わせるセンスなんて、彼の真骨頂だなぁと思った。

そして演説の後、ついにロジャー・スミスに突撃インタビュー。「今からでも、フリントに行ってほしい。失業者を見てほしい」と切実に訴えるマイケル・ムーア。その姿は「ボーリング」の最後のインタビューとかぶる。やっぱり彼は、身を決したパフォーマンスこそが表現の核になっている。ただこの作品はここで終わってしまう。もうひとつ先があってもよかった気がする。

その未消化な部分を補完するという意味でも次作「ボーリング・フォー・コロンバイン」は大きな価値があると言える。(実際、「ロジャー&ミー」のあるシーンはそのまま「ボーリング…」で使用されている)

森達也は、結局マイケル・ムーアも善悪二元論に陥っていることを批判するが、僕は彼が善悪二元論に陥っているとは到底思えない。陥っているのは「華氏911」だけだ。もし「ボーリング・フォー・コロンバイン」が善悪二元論だとしたら、最後の「すべては”ボーリング・フォー・コロンバイン”だ」という決め台詞が決まらなくなってしまう。あれが成立しているということは、事態の複雑さを暴いているということに他ならない。

あるいはストーリー上の”悪”を明確に設定すること自体に問題があると指摘するならば、それはマイケル・ムーアの作品はすべてそういう構造になっているわけで…、そして彼は「ロジャー」と「ボーリング」については、”悪”は設定するが”善”については迷っているように思える…。

見た人じゃないと何言っているか分からんね…

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今日は玄米買ってきてそれをビデオに撮ってました。

2005.12.27 映画

書を捨てよ街へ出よう

本日、例のCS放送のミニコーナー「スローコメディTV」、クランクインです。下北沢の某カフェバーで撮影…うーん、まぁ、そこそこちゃんと撮れた。モデルさん起用してよかった。モデルであるという特性をまったく生かしきれなかったけど。

■見た映画。
書を捨てよ町へ出よう [DVD]

寺山修司「書を捨てよ街へ出よう」

めちゃくちゃ面白い。ていうか自由。最近、いわゆる作品における「自由課題」ってのについて考えていた矢先、この人の作品は本当に”自由”だなぁと思った。

だいたい”自由”なんて簡単にできそうだけれど、誰だって、見えない自分の柵のなかで自由と思い込んで制作をしても、結果的に不自由にしか表現できないなんてことは、多々あると思うわけで…。演劇の手法を多く取り入れているから自由に見える、という単純なことではなさそうだ。映像というメディアの特性をよく理解した上で、あえてタブーを越えていこうとしている。

話はぐちゃぐちゃだけど、この映画はまさに”詩”で、もう少し具体的に言うと”詩のボクシング”に近いかな。筋を追っていくと混乱するけど、総体的になんだか受け入れられるというか、すっと体に入ってくるというか…。感想もなんていっていいのか分からない。

「映画は暗闇でしか生きられない、灯りが着いたらそれで終わり」という言葉が印象に残った。その現象を「夢」という概念と交錯させているけど、よく作り上げたなぁと感嘆してしまう。

北北西に進路を取れ [Blu-ray]

アルフレッド・ヒッチコック「北北西へ進路を取れ」

話の展開早すぎ。ぜんぜん飽きさせない。見終わった後、なんだかいろいろ納得いかなかったけど、濃密でおもしろい時間を過ごしたことはハッキリしていて、変な感じだった。エンターテイメントとしての映画ってのは、それでいいんだなぁとしみじみ思ったり。