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2005.9.25 映画

そして人生はつづく

そして人生はつづく [DVD]
アッバス・キアロスタミ監督の「そして人生はつづく」は、みずからの旅を再現した作品である。この監督の前作「友だちのうちはどこ?」を撮影したコケル、そしてポシュテという街は、1990年に大地震によって壊滅的な被害を受けてしまう。果たして、出演者たち、とりわけ主人公だったアハマッド君は生きているのか? それが気になって、監督は息子とともに、地震の5日後に旅に出る。

旅の再現のしかたにも色々あるだろうが、この作品は徹底的にドキュメンタリータッチである。息子との車内の会話はインタビューのようにも見える。つづいて車外の風景、道のわきを歩いている被災者たちとの会話(これもインタビューのように見える)、これが1時間半ほど、ただひたすら繰り返される。

旅先で出会った人たちや、風景からは、地震の痛々しさが伝わってくる。瓦礫の山が続き、砂煙が延々と巻き上がる。外を歩くおばあちゃんは、聞かれてもいないのに「家族全員が死んだ」と泣き喚く。監督は重い荷物を運んでいる子どもや女性を車に乗せてあげるのだが、そのときも「地震が起こったときの話をしてほしい」と、わざわざ嫌な思い出を掘り返していく。しかし、皆が皆ネガティブなことを言うわけではない。

印象的なシーンがあった。

地震の直後に結婚したという、若い夫婦だ。この夫婦は、地震でほとんどの家族・親戚を亡くした。ふつうなら、喪に服して結婚どころではないはずだ。しかし、結婚したという。「そんなときに、なぜ結婚を?」と監督はしつこく問いただす。すると、新郎はこう答える。

「死は突然やってくる。せいぜい生活を楽しんでおくんだ。次の地震で死ぬかもしれない、そうでしょ?」

※ちなみにこの夫婦についてのことは、次作「オリーブの林をぬけて」で詳細に描かれる。(正確には夫婦”役”のことだが)

こんなシーンもあった。

冒頭の息子との会話で、大地震の当日はサッカーW杯の「ブラジル対スコットランド」の試合があったことが明らかにされるが、なんとある街に行くと、地震直後だというのに、街を挙げてテレビのアンテナを立てている。W杯の試合を見るためである。監督はアンテナを立てている男のところに車を走らせて、問答する。

監督「家族が死んだ人もいるのに、テレビを見たい?」
男「僕も妹と姪が3人死んだけど、仕方ないさ。W杯は4年に1度だ。見逃せないよ」
監督「地震は40年に1度だしね」
男「神の思し召しさ。」

「そして人生はつづく」というタイトル、どこまで原題に忠実か分からないが、その言葉は、あらゆる被災者の姿に当てはまる。この映画によって描かれるのは、どういう状況におかれても、絶望のふちから希望を見出す人間の天性のたくましさである。ラストカットでは、監督が運転するおんぼろな車が、粒のような大きさで、ジグザグの坂を思いっきり駆け上っていくシーンが延々と映される。坂が急でなかなか進めないが、軽快で、嬉しくて、希望に満ち溢れた登り方だ。自分が間近で見た、人間の底堅い強さに向かって、自分も近づいていきたいという、監督自身の力強い決意表明なのかな。

一見地味な映画だが、構成に応じて、砂埃やまぶしい太陽といった厳しい風景から、木々の緑、色とりどりに咲いている花と、映し出される風景が徐々に変化していく。最後の急坂もそうだが、巧妙にイランの気候風土を押さえながら、その土地に生活する人々の暮らしを見つめている。リアリズムに基づいた、しかしダイナミックな作品だった。

2004.9.16 映画

らくだの涙

らくだの涙 [DVD]
ラクダの映画である。ラクダの映画なんていうと、土曜の夜くらいにやってる動物テレビ番組とか、ディズニーが制作した昆虫の映画などを思い浮かべる。

つまりあれでしょ、「大感動!超自然のスペクタクル」とか「みの○んたが泣いた!」みたいなノリで、ライオンに食べられるシマウマといった路線で、遊牧民と共に過ごすラクダの厳しくも生き生きとした姿をお涙頂戴的に描くような、そういうタイプの映画でしょ?

そんな声が聞こえてきそうだが、まあそれも、あながち間違いではない。ところが、この映画はどうも、そんなステレオタイプな「動物ドキュメンタリー」とは、一線を画しているような気がするのだ。

筋書きは、実に単純である。

モンゴルの遊牧民の、ある家のラクダに、白い子供が生まれる。この子供は、相当難産だったようだ。そして、難産になると、大抵、親ラクダはその子供の育児を放棄してしまう。

飼い主は必死に親ラクダと子ラクダを向き合わせたり、無理やり乳を飲ませたりする。けれど、親ラクダは子ラクダを蹴ったり、威嚇したりして、近づけさせない。

時がたってあせりも見え始めたころ、家の長老は、馬頭琴の楽師を呼んでくるよう、孫に命じる。そして親子ラクダの目の前で、歌いながら、馬頭琴の音色を聞かせると、なんと親ラクダは涙を流し、その場で、子ラクダを受け入れるのだ。

「馬頭琴を聞いてラクダが涙を流す」という事象は、モンゴルの、ある年齢以上の人々には、一般的に知られた常識であるという。制作者は若く、たまたま知らなかったようだが、その事実を知るや否や、モンゴルの遊牧民家庭とともに住み込み、その過程で偶然にも今回の「涙をこぼすラクダ」を撮影することに成功したのだという。

「制作者が遊牧民過程に住み込んで撮った」という事実は、この作品の独特な雰囲気を醸し出す要素として、とても重要な役割を果たしたはずだ。

ふつう、「ラクダの涙」を撮りましょうなんて言って、遊牧民のことなどお構いなしに撮影するとなれば、制作者はラクダばかり映すことになるだろう。ラクダの出産、育児拒否から、それを立ち直るためさまざまな表情を、丹念に追って、それこそよくある「動物ドキュメンタリー」の出来上がりである。

もちろん、この作品も、ラクダを主題に置いている以上、ラクダの一挙一動はきっちり抑えている。しかしそれ以上に強調され、実際に時間を割いて使用しているのは、遊牧民家庭の日常の生活や会話のシーンである。

モンゴル遊牧民独特のテントの中で、遠くへ行かないように紐で結ばれた赤ん坊が大泣きする。それをあやすお婆ちゃんは、ミルクを煮立てている。骨の駒をはじいて遊ぶ子供。砂嵐が吹けば、お母さんはテントの屋根をしまう。そんなシーンと同列に、お父さんがラクダを紐でつなぐような映像が、すっと入ってくる。

今回取材している家庭には二組の老夫婦がいて、この二人が、実に経験豊富で、ちょっとやそっとの事が起きたって、驚きもしない。ラクダが難産で、親ラクダの育児拒否がつづく。そんなことを、まだ若いお母さんがぼやいたって、「難産だったんだろ?よくあることだよ」と軽く流してしまう。

制作者は、そんな老夫婦の大きなフトコロを、実に丹念に追っている。だから、ラクダが育児拒否を続けていたとしても、まあこの老夫婦がいれば何とかなるだろう、といった安心感が、作品全体を包んでいる。

こういったシーンを意図的に入れていると分かるのは、制作者が馬鹿正直に、ただ遠くから垂れ流しで撮影したフィルムをつないだのではなく、必要に応じて、老夫婦にわざと昔話をさせたり、明らかに行動を再現してもらっている箇所があるからだ。具体的には、砂嵐でテントの屋根を閉めるシーンなんか、突然の出来事にしては絶妙すぎるカメラポジションであるし、お兄ちゃんが街で電池を買うシーンは、電池屋のレジカウンタの内側にカメラを固定している。こんなの、あらかじめ頼まないと撮れないだろう。

つまり、この作品は、ドキュメンタリーという体裁でいながら、演出(フィクション)が多分に含まれているのである。

しかしそんな描写も、わざとらしさは微塵も感じられない。いや、正確に言うと、実にわざとらしいのだが、それがいやらしくないのだ。なぜなら、制作者が遊牧民家族と一緒に生活しながら体得していった経験を、ただ素直に表現していただけだからである。

そういえば、日本のドキュメンタリー作家として有名な小川紳介という人が、うる覚えだがこんなようなことを言っていたのを見たことがある。

「夕焼けを撮っても、綺麗にしか撮れない。労働を撮っても、額に汗をかいているようにしか撮れない。たしかに夕焼けは綺麗だし、彼らは額に汗をかいて労働している。しかし、何年も見ていると、それでは違うということが、肌では分かるようになっている」

制作者たちも、家族と共に生活をすることによって、ほかの人にはわからない心の動きや、感覚などを敏感に読み取れるようになっていったのかもしれない。そういう状態でこの家族の「真実」を伝えるにあたって、あるシーンが現実なのか、再現なのかなんて、実はどうだっていいことなのではないか。重要なのは、制作者が彼らを眺め続けた”結果”を、たとえ再現でも正直に表現することが、もっとも真実らしい真実を提示する方法だったということなのである。

こうした丁寧な描写を通して、制作者は、「ラクダの育児拒否」という事件の中で、家族がどのような行動をとっていくのかを追っていく。すると、中盤で、物事に動じないはずの老夫婦たちが、相談をしはじめる。「困ったな…」「こうなったら、アレをやるしかないか…」

こうして、子供を使いに出して、街から馬頭琴の奏者を連れてくるのである。そして、冒頭にも触れたような、ラクダのお涙のシーンである。

ここでは、制作者の、ラクダの涙を決して逃すまいという強い信念が、妙な緊張感を生み出している。しかしここでも、確かにラクダの涙を捉えつつも、主役は馬頭琴に合わせて歌うお母さんや、それを優しい目で見守る老夫婦、何が起こっているのかまったくわからない子供のぽかんとした表情である。

そういう意味では、この映画は、決して動物ドキュメンタリーなどではないのだと、ここで断言したっていい。この映画は、ラクダの一連の表情を通して、遊牧民の家族を描いた、立派な人間ドラマなのである。

なるほど、この作品は、親ラクダが馬頭琴の音色を聞いて涙を流し、子ラクダを受け入れている。しかし、見た印象は、それだけでは収まりきらない。なにか、もっともっと言葉にできない、大きなことが、まさに直接語られているようにさえ思う。そしてそれは、言葉にできないくせに、とても普遍性を帯びた、大事なことなのではないかと、僕は感じるのである。

それは、長い長い間培われてきた、「人間の知恵」への感動に、他ならないのではないか。この作品は、もとより人間ドラマである必然性があった。なぜなら、ラクダが涙を流すのは、まさに、自然の摂理に対する人間の知恵の創出によるものだからだ。すべてを知る老人、何も知らない子供、その真ん中の若夫婦。彼らがラクダの涙のシーンを一緒に眺める姿は、自然と生きる知恵が、幾千年もの間受け継がれてきたことを、まさにそのまま映しているのではないか。

らくだの親子が寄り添った後、「良かった、良かった」と、馬頭琴の奏者も含めて、喜び合い、歌ったり、飲んだりする。その後で、子供が前から欲しがっていたTVを見るために、アンテナを立てるシーンがあり、これがラストシーンになる。このラストシーンから、僕なんかは、子供が文明化されていくことを受け入れつつも、同時に、受け継がれてきた素晴らしい「知恵」を捨てないで欲しいという、制作者のメッセージを感じるのである。深読みしすぎなのかもしれないけれど。