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2004.3.26 映画

アトミック・カフェ

アトミック・カフェ [DVD]
僕はどうも、昔から道徳系のビデオが苦手でしょうがない。まあ得意だと言う人も少数だろうけれど、僕の拒否感は並々ならぬものであると思っている。今の道徳ビデオは違うらしいけれど、とにかく「さわやか3組」だの「はばたけ6年」だの、学校で見せられるのが苦痛だった。

道徳の授業の後のディスカッションというのがもっと苦手だった。どう考えたって自由ですよという外面でいながら、実は学校側で「良い」と思っている価値観のみが正解になってしまう。「陸上競技大会があって、足の遅い子を入れると他のクラスに負けてしまう。さて、それでも足の遅い子を参加させるかさせないか?」なんていわれたら、そりゃ足の遅い子を参加させなきゃいけないに決まっている。だったらディスカッションなんかさせなきゃいいのに。

まあそんなことはどうでもいいけれど、公の機関がつくる映像が、視聴者を、公の機関が持っていきたい主張へ誘導するのは、当然と言えるだろう。例えば道徳の映像なんかを100時間分くらい集めて並べてみたら、政府や教育機関が考えている「良い子像」というのがきっと明らかになる。それはおそらくかつてのどの歴史の、どの国であっても同じことだ。ナチス政権下のドイツもそうだし、北朝鮮も、ソ連や東ドイツも、アメリカもそうだ。そういうのをたぶん一言で「プロパガンダ」っていうんだろう。

ではここで、かつての冷戦時代のアメリカを考えてみよう。アメリカはいかにしてソ連を悪者にし、核の有意性を訴えてきたのか。これは唯一の核被害国である日本の国民にとっても重大な関心事である。おそらくそれもきっと、当時アメリカが流した公の映像を100時間分くらい並べて見れば分かるはずだ、と僕なんかは思う。しかしそれは素人の発想だった。なぜなら世の中には、そういう公の映像を15000時間も並べて、何年間もかけて徹底的にアメリカの核戦略について調べ上げたつわものがいたからだ。この「アトミックカフェ」という作品は、そういう作品である。

この作品は、アメリカが流したニュース映像や、軍の記録映像、PRビデオなどの公の映像しか使っていない。しかし、これを並べるだけでは、映像史に刻まれる歴史的作品は生まれないだろう。並べ方が実に巧妙である。作者はまず、膨大な映像資料によって、核の危険性について恐怖を煽る。被爆後の広島の映像や、水爆実験の映像は強烈である。被爆者の髪は抜け、皮膚はただれ、後遺症が残る。第五福竜丸事件の影響でマグロが市場から消える。専門家は口々に核の脅威を語る。

そしてその後、アメリカ国民に向けた、「核の対策」ビデオのオンパレードだ。例えば、防御服を着れば放射能被害も安心ということで、子供に宇宙服みたいな防御服を着させて笑顔で自転車に乗せる。皮膚に傷がなければ、決して放射能には汚染されないという科学番組。原爆があったときには机の下にもぐれば良いと強調する子供向け番組。アメリカ軍の訓練で、ひとしきり放射能の被害は安全と説かれて、次の日には核実験を、なんと間近の塹壕でもろに受けて、そのあと爆心地に向かって突入していく。

こうした不条理な映像を見て、不思議なことに怒りは沸かない。沸いてくるのは、怒りを通り越した笑いである。人類を滅亡させるような壮絶な光景の次に、太った女2人が「核爆発があったときにシェルターに持っていく食べ物は卵、砂糖、クッキー・・・」とか能天気なことを言っている。これがもう可笑しくてしょうがない。こういうのをブラックユーモアというんだろう。

なにかを笑い飛ばすということの強さについて思う。このぞっとするような笑いに、核の持つ本当の恐ろしさが垣間見える。そして世の中にはきっと、この映像を見て笑えない人が居る。それもまた、恐ろしい。笑いは普遍的で、国を超えて共有できる。これが怒りに満ち溢れた問題提起番組だったらどうだろうか?核への恐怖、アメリカの核政策がいかに馬鹿馬鹿しいかを、ここまで体感できなかったのではないだろうか?問題提起番組には、かならず説教くささが付きまとう。どれだけ本当のことを提起したとしても、それはディレクターの「主張」の枠を超えることはないだろう。

しかしこの作品は主張を語らない。ナレーションなども一切無い。ただただ公の映像が流れるだけである。主張があるとすれば、その並べ方だけである。鑑賞者が並べられた映像について笑うのは、映像を通して鑑賞者が自発的に矛盾に気が付いていくからだ。人に強制されたって笑えない。自分で感じるから、腹の底から可笑しくなる。つまりこの作品はそのようにして、語らずにして、語っているのである。

また、この作品は一種のメディア論としての解釈も可能だ。映像は並べ方如何によって、そのメッセージが全く変ってくる。大学のメディアリテラシーの講義で、ある時期アメリカのTV番組は、9・11のテロの映像の後に必ず、喜ぶアフガニスタンの少年少女を入れていることについて取り上げた。こうすることで、「アメリカは被害者」という印象を与える効果があると言う。おそらくこれまでのあらゆる公の映像も、その文脈によって様々な主張をしてきたことだろう。しかしその文脈をバラバラにしたとき、ひとつひとつの映像がどれだけ支離滅裂か、そんなことも「アトミック・カフェ」は雄弁に語っている。

冷戦が終わり、時代は大型核爆弾から小型核爆弾へと移行しているらしい。テロも多発し、自衛隊派遣はどうだとかテロに屈しないとかなんとか、さまざまな主張が飛び交う。いまここで、現代の「アトミック・カフェ」を制作しても、また新しい笑いと恐怖が浮かび上がってくるような気がする。そしてそうした行為は、常に必要であると思う。

2004.2.24 映画

ワラッテイイトモ、

「笑っていいとも!」をいまだかつて一度も見たことが無いという人は、割とまれじゃないだろうか。家にテレビは置かないと公言している皇太子の弟さんなんかは、ひょっとしたら見たことがないのかもしれない。なにせ、20年以上、土曜日を除いて毎日放映しているわけだから、確率的にもうっかり見てしまうだろう。今や、テレビ番組の代名詞と言ってしまっていいと思う。

この「ワラッテイイトモ、」という作品は、一言で言えばそんな「笑っていいとも!」の映像をばらばらにして再構成した、映像コラージュ作品である。作者のK.K.という方は、どうやら家でずうっとテレビなんかを見て過ごしていたらしい。よく言う言い方だけれども、自分と世間をつなぐものがテレビにしか無い、という状態だ。

なぜ数ある番組の中で「笑っていいとも!」を選んだのだろう。毎日やってる、TVの代名詞とされる長寿番組だったら、別に「ニュースステーション」や「世界の車窓から」でも良かったし、それこそNHKの番組群なんて最高だろう。作者自身は、実は「笑っていいとも!」にこだわっていたわけではない、なんていう話を聞いたことがある。しかしこれはおそらく、「笑っていいとも!」以外ではあまりおもしろくなかったと思う。なぜなら、「笑っていいとも!」はバラエティ番組だからだ。真面目なニュース番組は、こういう場面でコラージュの対象になりがちで、取り扱い方も、その結果も、わりとやり尽くされた感がある気がするからだ。「笑っていいとも!」の場合、ズタズタに再構成されたらどうなるのか、少なくとも僕にはさっぱり想像が付かなかった。

しかも、他のローテンションな番組群に比べて、「笑っていいとも!」のテンションの高さは、引きこもりである作者と対照的に際立って、まるで彼をあざ笑っているかのようにも見える。「笑っていいとも!」はその内容からも「世間」の象徴というふうにも思えるけれど、それを映像コラージュという仕返しによってあざ笑い返すさまは、ますますむなしい。こういう演出は、例えばNHKのニュースなどでは難しかっただろう。

さて作品は、最初にまず「笑っていいとも!」という番組をおもちゃにしてズタズタに再構成し、引きこもりの暇つぶし加減を見せ付けてくる。その暇つぶし加減というか、バカバカしさ加減が、僕には2ちゃんねるのA.Aとか、おもしろFLASHに通じるところがあるという気がする。確かにおもしろいんだけれども、それを作っている膨大な時間と労力と、背中を曲げている姿を想像すると、どこか背筋がぞうっとするような感じ。あれだけで、K.K.という制作者がどれくらい引きこもりなのか、どれくらいTV漬けな毎日だったのかというのが想像できる。

ただこういうのを見ても、不思議と「どうだ、おもしろいだろう。お前ら笑え」という感じがしない。もちろん笑えるには笑えるのだが、むしろ、なにかそういうものを越えた、この藁にもすがるような必死な感じはなんなのだろう、と思う。

既に映像が持っている意味をばらばらにして、別の意味を持たせる、という映画で僕が知っているものに「アトミック・カフェ」という作品がある。これは核戦争のバカバカしさを米軍などの公の映像のみを構成して作った、とんでもないブラックユーモア作品である。これは、もともとあった公の映像が核について嘘ばかりついている映像だから、それを組み合わせることである種の「真実」が見えてくる、という仕掛けだ。

ところがこの「ワラッテイイトモ、」はその逆で、実際の映像を使って演出されるのは「虚構」と「妄想」の世界である。それを象徴的にあらわしているのが、TV画面にいるタモリとの会話である。例えば、タモリが「そっちの人は何やってんの」と聞く。彼は「映画とか撮っています」と答える。すると矢継ぎ早に、「お前、映画を作ってるみたいなのに、実際はね、過去の映像に違う索引作ってるだけ」と追い詰めていく。

これらは、K.K.の頭の中で、勝手に繰り広げられたやりとりである。もうひとりの自分と会話しているのか、彼にとってのTV像と会話しているのか、どちらにせよ自分を追い詰めていく言葉を労力をかけて作っているのは紛れも無く作者自身である。

それで彼はこのあと、実際にアルタ前に行って「笑っていいとも!」のオープニングに映ると言うパフォーマンスをする。その後、自分が映っているオープニング映像を繰り返し流した挙句、自分が映っているところにマーキングまでしてしまう。この自己アピール具合はなんだろう。そんなことをしたって、誰も気が付かない。ものすごく自己完結的な自己アピール。誰に対するアピールなのか、その辺がすごく漠然としている。いや、漠然とはしていない、そこにTVという、タモリという、世間という対象がある。しかしそれらがもうあいまいだ。しまいには、彼は「笑っていいとも!」の流れるTVをハンマーで叩き壊してしまう。

しかし作者がどんなに目立つようにマーキングしても、煙が出るほどテレビを壊したとしても、「笑っていいとも!」という番組が消えたわけではないし、世間が同じように番組から離脱したいと思っているわけではない。彼が壊して離脱したのは、彼が勝手に作り上げた、「笑っていいとも!」と同じ形態をとった虚構の番組と妄想の世間だった。だからものすごくむなしいし、彼がどれだけ動いても何も進展も変化もない。彼が自分の存在について確認しようとすればするほど、立ち位置がぐらぐらしていることが分かってしまう。

このむなしさを感じるからこそ、この作品は必然的に生まれたのだなとも思う。世間と自分をつなぐものがTVだけ、という状況は、そのTVが妄想になってしまった時点で崩壊してしまった。TVは両者の真ん中で架け橋の役目をしているのではなくて、ただ自分の中にあるだけ、ということが分かってしまったからだ。つまり世間からのシャットアウトだ。そこで、水槽から放り出された金魚がばたばたしているように、彼もちょっとばたばたしてみたのではないか。自覚的に、意味が無いことが分かっているばたばただ。しかしそのばたばたしか、とりあえず自分について確認する方法が無かったのではないか、と思う。