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2010.7.15

動的平衡

テレビとか雑誌などでよく見かける、福岡伸一氏の著作「動的平衡」。面白かった。分子生物学者である彼は、彼の目線から、生命とは何か、ということを考える。彼によると、生命の定義は「動的な平衡状態」なのだと言う。それはつまり、日々、一秒すぎるごとに、細胞が生まれたり、消えたり、動いたりし続ける中で、同じ状態を保ち続けているという「システム」こそが、生命なのだということらしい。そして彼は、デカルトが言い出したという、「人間の体というのは、手や足、心臓といった、それぞれ個別の役割を持ったパーツの集合体である」というような機械論的な生命観を批判する。

彼の言っていることは、直感的には、しっくりくる。先日、下高井戸シネマに行くときに、自転車でひっくりかえって、左腕を擦りむいたのだが、その傷の治っていくのを観察していると、この自動発生する修復機能そのものに、生命の動きを見ている気がする。同時に、ちょっと話は飛ぶけれども、以前「東海村臨界事故、被ばく治療83 日間の記録」という資料を読んでいたときに襲ってきた強烈な恐怖感のことも思い出した。放射能を被爆するということは、直接怪我をしたり、というものではないのだけれども、生命が生命であろうとする、その細胞の動きを全部狂わしてしまって、はじめは見た目はまったく正常なのに、既に体は正常な生命体ではなくて、どんどんと、体中の全てのバランスを狂わせていって、死に至るという状態が、ものすごく恐ろしく感じられたのだ。それは「動的な平衡状態」が、徐々に「動的な不均衡状態」に向かっていくことへの、その逃れられないスパイラルに対する恐怖だったのだろう。

生命ということを様々な人が語る。文学者には文学者による、生命の捉え方があって、政治家には政治家の、芸術家には芸術家の捉え方が、それぞれあるだろう。その流れのなかで、世界がどういう風に見えているのかということも、またそれぞれであって、けっきょくのところ、他人が世界をどう見ているのかを、把握する機会はあんまりない。ところが今回は、生物学者というのはこういうふうに生命を捉えているんだ、こういうふうに世界を見ているんだ、ということが鮮やかに伝わってきて、それは「他人の秘密を覗いた」というような感覚もあったわけで、面白かった。

2010.3.2

書く―言葉・文字・書

以前こういう日記を書いて、手書きで書く文章と、キーボードを打って書く文章との違いを、自分なりに考えてみたことがあった。そのとき、手書きとキーボードでは、使っている脳が違うのだなあと感じた。やっぱり手書きのほうが頭を使う。漢字を書き順から思い出さなくてはならないし、そもそもこれから書こうとする文章を、まず先に頭に思い描かないといけない。逆に言うと、キーボードだと漢字を思い出す必要は無いし、何も考えないまま文章を作ってしまう。

この本は、「書とは、触覚の芸術である」と言っている。「書く」という行為は、紙に筆が触れることであるということだ。「書く」という行為をより広げて解釈すると、畑をくわでカリカリしたりするような作業も、「かく」という動詞が使われる。そもそも書字のはじまりは、壁とか木とかに線を「掻く」ということだったらしい。そう考えると、「書く」というのは「話す」よりも歴史が深い、より原始的な行為であるといえる。

その一方で、パソコンを使ってキーボードを打つことで文章をつくる、というのは、「書く」という行為からあまりに遠い。というか、キーボードは「打って」いるわけで、そもそも行為の種類が違う。「書く」という行為があって初めて、漢字やひらがなという文字が成り立ったし、そこから書体というものが生み出されていったはずなのに、パソコン登場以後、全く別の行程を踏んで文章を作成し、でも今まで「書く」のに使っていた言語を用いている…こんなことで大丈夫なのか? というようなことを、著者は嘆いている。

本の一番最初には、「現在の日本に見られる、文化的な頽廃と失調の元凶は、言葉と文字と書(書くこと)についての近代的呪縛=神話を超えられないところにある。」と激しく現状を憂いている。正直そこまで悪影響があるのか? とは思うけれど、キーボードでの文章作成のときには、確かに「筆が紙に触れる」という行為はすっ飛ばされていて、まさにその触覚の部分に、「書く」ことだけが持っている特性がある、という筆者の主張は分かる気がする。紙に触れたら何かが記される、という結果があるからこそ、その結果を得るために、僕たちはあらかじめ文章を脳内で作成し、漢字とその書き順を思い出すのだ。そこには「言語」と「文章を作る」ことをつなぐための必然性がある。

昨年観に行ったマーク・ロスコ展ではロスコの直筆の手紙が飾られていたが、あれは笑ってしまうぐらいに、その手紙を書く時の字体が感情に左右されていて、混乱しているときの文章は、見た瞬間に混乱していると分かる。そういうことも「書く」ということの重要な要素を占める。書は、字の上手い下手、流行り廃りから、その瞬間のその人の感情や、人柄までが表現される。さらに漢字の場合は、アルファベットと違って字自体に意味があるから、その意味性も表現される。そういうふうにあらゆる要素が凝縮されているからこそ、「書」は鑑賞されるし、そういう情報の結集が簡単に葬られようとしている現状に、著者は憂いを感じているのだろう。

まあ、その感想文をこうして、キーボードで打っているわけだが…。