動的平衡
テレビとか雑誌などでよく見かける、福岡伸一氏の著作「動的平衡」。面白かった。分子生物学者である彼は、彼の目線から、生命とは何か、ということを考える。彼によると、生命の定義は「動的な平衡状態」なのだと言う。それはつまり、日々、一秒すぎるごとに、細胞が生まれたり、消えたり、動いたりし続ける中で、同じ状態を保ち続けているという「システム」こそが、生命なのだということらしい。そして彼は、デカルトが言い出したという、「人間の体というのは、手や足、心臓といった、それぞれ個別の役割を持ったパーツの集合体である」というような機械論的な生命観を批判する。
彼の言っていることは、直感的には、しっくりくる。先日、下高井戸シネマに行くときに、自転車でひっくりかえって、左腕を擦りむいたのだが、その傷の治っていくのを観察していると、この自動発生する修復機能そのものに、生命の動きを見ている気がする。同時に、ちょっと話は飛ぶけれども、以前「東海村臨界事故、被ばく治療83 日間の記録」という資料を読んでいたときに襲ってきた強烈な恐怖感のことも思い出した。放射能を被爆するということは、直接怪我をしたり、というものではないのだけれども、生命が生命であろうとする、その細胞の動きを全部狂わしてしまって、はじめは見た目はまったく正常なのに、既に体は正常な生命体ではなくて、どんどんと、体中の全てのバランスを狂わせていって、死に至るという状態が、ものすごく恐ろしく感じられたのだ。それは「動的な平衡状態」が、徐々に「動的な不均衡状態」に向かっていくことへの、その逃れられないスパイラルに対する恐怖だったのだろう。
生命ということを様々な人が語る。文学者には文学者による、生命の捉え方があって、政治家には政治家の、芸術家には芸術家の捉え方が、それぞれあるだろう。その流れのなかで、世界がどういう風に見えているのかということも、またそれぞれであって、けっきょくのところ、他人が世界をどう見ているのかを、把握する機会はあんまりない。ところが今回は、生物学者というのはこういうふうに生命を捉えているんだ、こういうふうに世界を見ているんだ、ということが鮮やかに伝わってきて、それは「他人の秘密を覗いた」というような感覚もあったわけで、面白かった。