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2009.2.12

ヨーロッパ退屈日記

ヨーロッパ退屈日記 (新潮文庫)

伊丹十三「ヨーロッパ退屈日記」を読んだ。彼は映画監督になる前に国際俳優だった時代があり、そのときのエッセイだそうである。一言でいうと、上品だった。ヨーロッパの何国かの文化を実際に見てみて、ひるがえって日本はどうだ、こうだという話を上品にまとめている。

読みながら「退屈」について考えた。伊丹先生の書いている日常は、けっして「退屈」ではないのである。少なくとも、休日に、延々と2ちゃんねるのスレッドを読みあさっているときの「退屈」とは違う。しかし読むと、伊丹先生の文章群と「退屈」という言葉には、やっぱり親和性があるように感じられて、うーむと考えてしまう。そうだ、退屈というのは、ひょっとしたら、もっと上品なものなのかもしれない。忙しい時に、なにかを感じたり、取り入れたり、どうでもいいことを斜めから見たり、そういう「クリエイティブのすき間」のことを言うのかもしれない、そんなふうに思った。

スパゲッティの話があった。スパゲッティとはこういうふうに食べるものだという話だ。いわく、まずはパスタの一部分を脇に寄せて、小さなスペースを作る。そこに、フォークでパスタを2、3本はさんで、決して皿から離さないように巻きとって、そして音を立てずに食べる。すぐに太田尻家に行って、サンマと青菜のパスタを頼んで、伊丹先生の言うように食べてみたが、たしかに上手に食べることができた。たぶん、上品だった。

パスタを音を立てて食べる人を、伊丹先生はいたく嫌う。ほかにも色々、いろんな人の、いろんなシチュエーションでの特定の行為が嫌いみたいだ。そういうことをする人をまとめて、伊丹先生はこう表現する。「そういう人を、”ミドルクラス”と言うのです」と。その感じが面白かった。僕自身は、ミドルクラスかそれ未満という位置なんだろうけれども。彼はある意味での潔癖なんだろうかと思った。解説が良いことを言っている。「この本は、自慢話と雑知識にまぶして行なった自己表白である」。

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いろいろなことがあった。

このブログを過去までさかのぼって見る人など、よほどの物好きだろう。しかし興味本位でいま、9月くらいからさかのぼって見る人がいたなら、さまざまな表現が、ここ数日で少し変えられていることに気づくかもしれない。それは僕の意思ではなくて、なにか得体の知れない、神の見えざる、強大な圧力によるものだった。

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毎週金曜日は下北沢のスローコメディーファクトリーに、迷惑にならない限りお留守番をしようと思っているのだが、今週はペロペロキャンディーを舐めながら、撮りためた映像日記でも上映しようかなと思う。ひとの映像日記など見て喜ぶひとなどいないだろうが、BGM(Back Ground Movie)ならば問題はあるまい。数年前は毎日撮っていた映像日記も、ここ最近は何か大きなことがない限りは、ビデオを回さなくなった。しかし最近、ビデオを回したのである。ビバ、ジョナス・メカス。メカスは、何十年も16mmフィルムで映像日記を撮り続けた、映像日記界の巨匠である。僕はリスペクトしている。

2008.8.30

生物から見た世界

生物から見た世界 (岩波文庫)

先日読んだ「生物から見た世界」という本は面白かった。これは、動物比較生理学者のユクスキュルという人が、今からおよそ70年ほど前に書いた本である。この本は、生物の「環世界」ということについて書かれている。環世界というのは、その生物が知覚的に感じている世界、という意味である。要するに、同じ環境を生きていても、人間が知覚する世界と、イヌが知覚する世界と、ハエが知覚する世界では、まったく違うということだ。

たとえば、ダニは目も見えないし、耳も聞こえない。味覚も無い。あるのは、光りがあるかないかを感じる光覚と、ほ乳類の皮膚線から出るという「酪酸」のニオイを感じる嗅覚、そしてほ乳類の体温を感じ取る触覚だけである。ダニは、光りをたよりに木の上によじ登り、酪酸のニオイを感じたら身を投げ出し、うまく動物の上に落ちたかどうかを触覚で確認して、血を吸う。その後は、産卵して死ぬのみである。つまり、ダニにとっては、光りがあるかないか、酪酸のニオイがあるのか無いのか、そして体感する温度が動物の温度なのかそうでないのか、この3つの要素だけで世界が成り立っている。季節が秋になって葉っぱが赤くなろうが、近くでカラスがけたたましく鳴こうが、ダニにとっては一切認識されない、何の関係もない話なのである。ダニにとっては世界はそのように認識されている。

それぞれの生物は、自分が生きるために必要な知覚機能だけを持ち、それがその生物にとっての環世界を形作る。このことは、人間が見ている世界も、それは人間の知覚機能が感じ取っているだけの限定的な世界であって、決してすべての環境世界を見ているわけではない、ということを気づかせてくれる。

この本を通して、がんばってほかの生物の環世界を疑似体験してみるのだけれど、でもそれで理解できたことも含めて、けっきょくは人間が感知できる世界での話なんだなあと思ってしまう。人間の環世界の外にはいったい何があるのか。それは僕が人間である以上、知ることは絶対にないのだろうけれど、想像を膨らませると何だかワクワクしてくる。

しかし生物間の環世界には、はっきり区別できる差が見られるが、もっと狭い範囲に目を向けても、実は人間同士でも、細かいところで、微妙にずれのある環世界のなかを生きているんだろうなと考えると、ますます興味深い。実際、最終的には他人の頭を覗き込んでみることなど不可能なのだから、目の前の他人が、僕と同じ環世界で生きている保証などどこにもない。知覚の数だけ、環世界がある。人間のあらゆるコミュニケーション活動っていうのは、芸術も含めて、けっきょく無数の環世界を、できるだけひとつの共同幻想のようなものに落とし込もうとする作業なのかもしれないな。そしてそれも、人間が生きていくために与えられた機能のひとつということなんだろう。

視野の広がる、ロマンのある本だった。