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2019.2.21 日常日記

趣味

「趣味はなんですか?」と言われる機会はあんまりないんですが、たまにあります。そして、もしそれを言われたらどうしよう?とか考えながらひとりでホッピーを飲む夜もあります。

趣味はなんだろう。最近たまに走っているので、それは趣味と言えるかもしれない。でも12月くらいから寒すぎて、走ってないんです。調べると近所のジムが通常は月7000円なのに、2月末までに入会したら永久に月6300円だと言っています。でも3月くらいになって、夜走っても大丈夫な気温になれば、ジムなんか行かずに普通に外で走れます。僕は誘惑されているんです。ジム側もそれを見越して、永久月6300円と言っているんです。もうすぐ春なんです。だから僕は風を集めて、走るんです。

多少脱線しましたが、趣味ってのは何なんでしょうかね。とはいえ僕の趣味は、明確に「飲み屋さんで飲む」です。飲むのが趣味、というと誤解があるので正確には「飲み屋さんで誰かとなんらかの会話をする(または聞く)」のが趣味です。僕の感じでは、それは即興の音楽演奏が近いです。誰かが音を出したから相手はじゃあこれでどう?みたいに応じていくやつ。当意即妙ってことでもなくて、それはきっと、全然ずれていても良い。ただ、そのときにしか起こりえない何らかが起こる。その横にいたり、その輪に加わっているのが楽しいです。

「聞く」に注目すると、ラジオを聴きに行くような感じ、と言っても良いですね。僕はまったく話さずに、人生の先輩方(あるいは同世代の方、若い方、まぁ年齢は関係ない)の面白い話やジョークを、ただ横で聞いている。それは一回きりの、とても素敵なラジオのよう。そんな日もあります。

しかし「趣味はなんですか?」と聞かれて、「日夜、行きつけの飲み屋さんに顔を出しています」とはなかなか言いづらい。間違っても「いやぁ、毎夜、商店街をパトロールしてるんですよ」などという昭和のオヤジギャグみたいなことを言ってはいけない雰囲気は世の中にはあります。

とはいえ、逆にこちらから「趣味はなんですか?」と聞いた場合(そんなことあんまり聞かないけど)、なにか「期待する答え」というものはあるんだろうか?とも考えます。僕の場合は、その回答がなんでも楽しいんですよね。「毎日ゲームやってる」でも「宝塚にハマってる」でも「雑草をむしる」でも、なんか楽しい。

結局、当たり前の話ではあるのですが、趣味っていうのは他人にジャッジされる性質のものではないんですよね。自分が面白ければ、それが趣味と言える。そうんだけれども、誰かから「趣味ってなんですか?」と聞かれた場合は、状況によっては、他人がある程度許容できるような「趣味」を答えないといけないというのが、面倒です。テニスとかやってたらいいんでしょうか。僕が人にそれを聞いた場合には、そんなこと求めてないので超ニッチな趣味(があれば、なくてもよい)をぜひ答えてもらいたいけれども、とにかく言いたいのは趣味の話をあんまり親しくない人とするのは面倒だよねってことでした。

2019.1.5 日常日記

無欲化

あけましておめでとうございます。
(この記事を書いたのは2018年の春くらいだったのですが、公開するのをすっかり忘れていました。)

最近よく言われるのが「大里さんは『無欲』ですよね」ということです。これが一人に言われたのなら、まぁその方はそういう意見なんだなということで終わるのですが、3人以上に言われると、本当にそうなのかもしれないなぁ、というふうに考え始めます。でも実はこれは、ある時期から、その当時の言葉は「無欲」というものではなかったけれど、意図して「無欲」的であろうとした自分があったので、なんか言われていることは分かるわけです。というか、「無欲」的にしてから暮らしや生き方が楽になったし、なぜか売上も少し上がっているかな、という具合です。いろいろ、良くなりました。

それまでの僕はつねに「何者かになる必要があるのでは」というある種の思い込みがあり、おそらくそれは強迫観念に近い考え方だったような気がします。「あなたの夢はなんですか?」「本当の個性を見つけよう」「30代までにモノにならなかった人はダメ」みたいな話を人生の諸先輩方に言われると、そうなのかなぁ、どうにかしないとなぁ、自分は一人で活動しているし、そのためにはもっと自分をアピールして自分のすごいところを主張して、それで当てないとダメだな、とか思っていました。

そのためにいろいろやっていたのですが、実際のところはそういう特殊な素質はなかったし、そもそもモチベーションが自分から湧き上がってきたものではなくてどちらかというと誰かから評価されるために頑張る、という感じでしたので、まぁあんま続かないし、そのクオリティも微妙なわけです。

仕事的にも、ふつうに依頼があるのに「自分がやった痕跡を残したい」という自己満足の気持ちから変な提案をしたり、納品物にそういう要素をぶっ込んだりしていると、まぁたいていボツになるか、ならなくてもすごく揉めたり修正が無駄に多くなったりします。「自分が何者かになりたい」ということも、無駄に重い荷物を背負っているようで苦しかったし、その結果仕事がこじれていくのも大変でした(自分のせいなのですが)。

そこで、いろいろ考えた結果、「相手のために、頼まれたことをやる」という、言葉にするとすごく当たり前なのですが、それを意識することにしました。自分のことはできるだけ考えず、ただ持っているスキルで、タスクをこなしていく。よくよく考えてみると、クライアントに要求された提出物に自我を入れる必要って、結果的にうまくいったケースも含めても、無いです(自我を入れてくださいと求められた場合は別ですが)。仕事としては、投げられたボールをきちんと打てばいい。

自分以外のまわりを見渡したときにも、案外仕事で「自我」を通し切ろうとして、結果的に苦しんでいるみたいなシチュエーションが結構あるなとも思いました。例としてデザイン領域で考えてみると、たとえば、「『自分が思う』いいデザインにしたい」という気持ちが強いときがある。変なものを作っちゃうと、そういうデザインする人だって思われるのもいやだし。そう思うことはとても自然なのですが、そういうモードに入った案件に限ってけっこうこじれたりします。だってクライアントは問題をただ単に解決したいだけであって、その作り手個人の問題は関係ないから。

そういうのを見ていたり、自分のうまくいかない感じを振り返ったりしていく中で、僕は自分のことは考えずに、その人が「ありがたい」と思ってもらえることを最優先にして制作する方向に舵を切ることにしました。

けっこうあるのは、そうやって求められることをただ応えていった結果が、本当にカッコ悪い仕上がりになったり、これは本当の解決じゃないんじゃないのかな?というようなケースです。それが明らかに予想できる場合、一応、僕は言います。「そうではなくて、こうしたほうが良いのではないでしょうか」と。

でもそれで、そうじゃない、頼んだ通りでお願いします、と言われたら、僕は全力で頼まれた通りやります。それが僕の思うところではなかったところであったとしても。以前は特にこの部分に苦痛を感じていましたが、いまは何も思いません。なぜなら、仕事の成果というのは相手の満足度、つまり困っていたな、とかここを改善したい、と思うところが解決された、というところがすべてだと思うからです。この「解決」というところにギャランティが発生している。別に自我のところでは発生していないのです。この部分が、以前と考え方が随分変わりました。極端に言うと、以前は「自分が正解を持っているから、自分が思うとおりでないと意味無い」とか思っていました。でも「正解」は相手が持っている。

自分的には全然いいデザインじゃないな〜と思いつつ「いいデザインだった、ありがとう」と言われるのと、自分が最高だと思うものをゴリ通して「まぁいいけど、なんか違う」と言われるのでは、前者のほうがよっぽど良い。もちろん一番の解決策は双方が満足することではありますが。なかなかそうならない、という案件は現実としてあります。どっちを取るのか。どちらが優先順位が高いのか。僕は相手の要求を満たすほうを選択しました。意外と「自分が思うとおりにならないと嫌だ」というクリエイターはいます。それはそれで素晴らしいことです。僕はそっちを選択しませんでした。というか、おそらくそれほど「自分ならではの制作物」に対するこだわりはなかったのかも、というのもあるのかもしれませんが。

つまりこれが「無欲」と評価されているのかなと解釈しています。それでも僕は別に、「言われたことはなんでもやってくれる人」でもないですし、どちらかというと、「嫌だな」と思ったら断っちゃう人です。でも「無欲な人」と言われたとき、それはなんだかすごく僕が選択してきたことを言われているな、と思います。

そして、僕個人の実感としましては、「無欲な人」であるとたいへんスムーズに仕事がまわります。単純なNGとか、良くわかんないどんでん返しの修正みたいなものの数が圧倒的に減り、効率的に仕事が回せるようになりました。

とはいえ、僕も未だに個々の案件の「(自分が思う)本当の解決」ということへの関心はあるのですが、でもまぁ、結局それは最終的には発注者がその問題に気づいたときにしか、そのオーダーも無い、というふうに思っています。なので僕はそういうことを急に言われたときに、その解決案を言える準備さえしておけばいいのかな、と思っています。