東京都現代美術館でやっている、「私はどこから来たのか/そしてどこへ行くのか」展を見た。現在という時間にとらわれずに、もっと大局的な流れで制作された作品だけを集めた展覧会。大胆に過去の手法を取り入れているもの、制作に何十年もかけているもの等、一筋縄ではいかない作品の数々に、いつもよりもじっと見入ってしまった。その中から、特に印象に残った作家ふたりについて書いてみたい。
ひとりは、北島敬三という写真家である。彼は、1992年から10年以上にわたって複数の男女のポートレートを断続的に撮り続けているという、なかなか辛抱強い作家である。そのポートレートというのも、おもしろおかしい要素を一切省いた、一言で言えば証明写真のような写真である。人によっては、そんな写真の、どこがおもしろいのかと思うかもしれない。
しかし、彼の作品のおもしろいところは、被写体が皆「大人」であることである。同じ構図、同じ服装で、無表情で真正面の写真を断続的に撮っているから、一人の大人が10年と言う歳月でどのように変わっていくのかが分かる。しかし、子供の成長のように一目で分かるような変化ではない。それは淡いグラデーションのように、少しずつ変化していく、大人独特の時の流れである。
僕はまだ22だから、大人にとっての10年というのがどういうものなのか良く分からない。よく大人は「大人になるとあっという間だよ〜」なんて言ってくる。あまりに頻繁に言われるから「はいはい、分かりましたよ」と言いたくなるけれど、実際どうなのか、ぴんと来ない。しかし科学の実験報告のようなこの写真群を目の前にすると、僕は少しだけ、その「感じ」をつかむことができる。その「感じ」というのを、うまく言葉にするのは難しい。それは良いとか悪いとか、明るいとか寂しいとか、そういうものではなく、ただ「流れが違う」としか言いようがない。僕は未体験ゾーンだから新鮮だけれども、ある程度の年齢の人が見るとどう感じるのだろうか、そこにも関心がある。
もうひとりは、山口晃という画家である。彼は、昔の絵巻のような絵を描く。というか、ぱっと見、絵巻にしか見えない。古風な日本画に異常な拒否感を抱く人なんかは、見る前に飛ばしてしまいそうだ。しかし、少し立ち止まってみると、様子がおかしい。描かれているものが、現代と過去が混ざった不思議な空間だからである。
例えば、合戦の絵では、馬と一緒にオートバイに乗っている武士がいる。ハイエースに乗って出撃する人も居る。それをカメラもった外人が物珍しそうに見ている。昔の温泉施設を丁寧に描いてある絵巻では、「これは本当の昔の絵かな」と思いきや、端のほうに駐車場があって、「現代の昔風の温泉施設」というオチをつけてるのもある。よく見ると、昔風の人々の間に子供づれのサラリーマンなんかが居たりする。非常に細かい絵なので、「ウォーリーを探せ」とか「こち亀」の芸術版を見ているような感じかな。とにかく絵がうまい。
彼の絵巻は、とても映像的である。霞を境にして巧みに時間軸や空間をずらし、例えば右から左に向けて起承転結をつけている。きっと昔から絵巻はそういう技法で物事を描いていたのだろうけれど、「時間軸をいじれるなら、それを現代に適用したっていいじゃないか」というのは、当たり前のようで今まで誰も思いつかなかった発想。こういう新しい発想を提供するのは、芸術家としての真骨頂だろうね。
僕が興味あるのは、この作品を500年くらい後に見た人はなんて思うのかなぁ、ということである。500年後には、500年前も1000年前も同じ「過去」になる。歴史に詳しくない僕は、すでに奈良時代と江戸時代 はごっちゃである。500年後には、いま僕らが「現代美術」と思っているものは、過去の遺物になる。この絵巻作品は、「過去とそれより過去についてそれより過去の画風で描いた作品」というわけの分からないものになってしまう。その頃、この作品はどのように解釈されるのだろうか。
どちらの作品も、「時間」というものの流れについて、実に豊かな表現をしていると思う。ものすごく普遍性を感じる。そこには、展覧会の「はじめに」の言葉にあるように、「過去や未来を視野に入れて現在を捉えていく強靱な思考」があり、「不安定な現代社会に生きる様々な世代のひとびとのアイデンティティの問題」を確かに捉えている。僕なりの解釈というか表現で言えば、「自分のすぐ近くにある自分の脳がふわふわ浮いて考えている感じ」である。いま起きていることを、ちょっと離れたところで、定点観測的に見ている感じ、と言ってもいいのかもしれない。